改めての辛口提言

昨日の午後、郵便受けに原町九条の会のY事務局長さんからの手紙が入っていた。中には事務局宛ての私の手紙の印字された原稿と、そしてこれを次号の会報に載せたいのだがよろしいか、との問い合わせの手紙が入っていた。まずその原稿をそのままコピーしよう。


非常時における連帯は可能か

 会報165号に掲載の「朝日新聞」の記事では、私の怒りは伝わりません。22日の「東京新聞」、NHK「こころの時代」の徐京植氏との対話、『週刊現代』の4ページの私の記事などを読んでいただければ、私の主張がお分かりいただけると思います。
 非常時における連体は可能か、というテーマでブログに書こう思います。事故後友人や、九条の会の会長・事務局長さんにも電話をかけました。どうしますか、ということではなく、単純に安否を心配しての電話でしたが、だれもが避難していませんでした。そのときにはただ淋しいなという気持ちだけでしたが、時間が経つにつれていろんなことを考えさせられました。日ごろ戦争反対を唱える人たちがもっと事態が緊迫してきたときにも、果たして一緒に闘えるんだろうか、などという疑問です。
 もし、お気が向いたら小生のブログを見てください。ついでに申し上げると、このまま九条の会に留まる意味があるのか、本気に考え始めました。

7月15日 (原町区橋本町・佐々木孝さん)


 手紙による一種の抗議文、つまり会の存続に関わる重大な異議申し立てをそのまま掲載しようとしているYさんの懐の深さにまず驚いた。特に最後の「このまま九条の会に留まる意味があるのか、本気に考え始めました」は、あまりに刺激の強い文章で、載せるのはいいいが最後の文章を削って下さい、と返事しようとして、いやこの際このままの形で全文掲載してもらった方がよいのではと思い直した。偉そうなことを言うようだけれど、会の皆さんにも考えてもらうにはその方がいいのでは、と思った。つまりこうした流れ(?)の中で、会に留まってもう少し頑張ってみよう、という私の気持ちが固まったからである。
 念の為にここで確認しておきたいのは、避難しないで町に留まった自分が正しく、一時的にしろ避難していった人たちは間違っていたと糾弾するつもりでは決してない。しかし今回起こったことを各自冷静に振り返ってみる時期がそろそろ来ているのではないか、と思っているのだ。
 非常時における連帯、とはなんと人騒がせな表現と思われるかも知れない。しかし今回の震災そして原発事故はまさに非常時であり、このときの経験を将来に生かさない法はないのである。九条の会の存在理由は、簡単に言えば、戦争へと向かうあらゆる兆候に対して常日頃から警戒を怠らず、究極的には戦争のない世界を目指す集まりだと思う。確かに私たちは現在、戦争反対を主張することによって自分の身に危険が及ぶことなどありえないと思われる世界に住んでいる。しかし戦争反対を唱えることなど一切できない時代が、わが国にもそう遠くない過去にあったのである
 もちろん私はそういう暗黒時代がまた訪れると考えるほど悲観論者ではないが、しかし世界にはまだまだ言論の自由が著しく阻害され、時にはそのために命が奪われるところはたくさん残っている。かつてのルーマニアのチャウシェスク政権下のことは有名だが、今だって北朝鮮その他、正しい主張が時に命と引き換えとなる国もしくは地域が点在する世界に私たちは生きているのである。
 それにしても昔の人は、とひとまず言うしかないが、弾圧と時には拷問死さえも覚悟して命がけで自分たちの主張を伝えようとした。特高などお上からの追求だけでなく、時には「善良な」国民たちからの監視と密告に怯えながら。
 いやなにも私は原発事故以後の状況を、特高などが睨み利かした暗黒時代と単純に同一視しているわけではない。しかし自分たちの存在を脅かすものが迫っているということでは、両者に共通したものがある。先ほどは再び暗黒時代など訪れないだろうと楽観的なことを言ったが、そんな平和なわが国でも、戦争反対を主張することが時の政府の忌憚にふれ、真綿で締め付けられる具合に、徐々に言論の自由が奪われ、主張者が次々と身柄を拘束される時代が絶対に来ない、とはだれも保証することなどできないであろう。
 経済の不況が深刻化していき、ついに強いリーダーを求める国民的気運の中で右傾化が始まり、強い国家像が求められ、ついには核兵器の開発へと進み、そうした国の方針に反対する者たちを一掃しようとする勢力が登場することなどありえない、といったいだれが保証できるだろうか。そんなことはありえないなどとだれも言い切れない不確かな時代に、私たちが生きていることもまた紛れようもない事実なのだ。
 さてもっと現実的なことに話を戻そう。あの大震災のあと、さまざまな情報が行き交い、私たちの町でも皆が一気に不安な状況に追い込まれた。頴美のところにも、中国人の友だちから、中国政府は新潟から中国へ飛ぶチャーター機を用意しているから、ともかく新潟まで行くように、との強い勧めがあり、正直なところ私たちの家族は一時崩壊寸前まで行ったのだ。なぜならそのチャーター機に日本人の配偶者までの席は用意されていなかったろうから。
 相馬市で自殺した酪農家はフィリピン人の妻と二人の幼い子どもを一時避難させるつもりでフィリピンに連れて行き、自分はひとり日本に帰ってきたが、悲しいことに今度はフィリピン政府が、日本国籍を持つ子どもはともかく、フィリピン国籍しかない妻の日本帰還のためのビザ発給を、自国民保護の名目で認めなかったらしい。そんな悲劇が我が家にもすぐ側まで押し寄せていたのである。
 思わず話が逸れてしまった。軌道を修正する。ともかく言いたかったことは、あの時、つまり原発事故直後、私たちに迫っていた危険は、これまで何度も言ってきたように、津波やペスト蔓延とは違って、あるいはフィリピン機や中国機の最終便というギリギリの決断とは違って、少なくともその危険に対処する時間的な幅(余裕とは言えないが)があったということである。ここで再度断わっておきたいのは、私はその時、その人がさまざまな理由や状況の中で一時避難を決めたことについてとやかく言うつもりは毛頭ないということ。
 言いたいのは、その時間的幅の中で、たとえば九条の会について言うなら、会員相互の安否の確認やら次の段階での連絡方法の交換やら、あるいはこれからの自分の行き先などを報告し合う時間的余裕があったのではないか、ということ。つまりこれは、もっと厳しい状況の中で自分たちの理想追求のための運動を続けるためにはぜひとも必要な手立ての、いわば予行演習(?)の意味があったのではないか、ということである。
 ここでは言及するつもりはなかったが、ついでだから言うと、病院や老人介護施設などで起こった大混乱の際にも、日ごろからの備えというか、つまり想定外とも言えるような非常時にも役立つ心構えがまったくなされていなかったことへの充分な反省と、今後のための方針を是非作るべきであると考えているのだ。事は原発事故現場での対応をめぐる国や保安院や電力会社の問題だけではないということ。各自治体、施設、そして九条の会のような市民の任意団体にも言える今後の重要課題であり、もっと言うなら、夫婦や親子など全ての家族にも課題として残された問題であることを、この際しっかり認識すべきであると考えているのである。
 もちろん言うまでもないことだが、今回の震災や事故を幸いにも免れた全ての人・団体・組織にも同様のことが言える。そしてそれこそがこの未曾有の災害から私たち全てが学ぶべき貴重な教訓のはずである。
 あゝ偉そうなこと言い過ぎて疲れました。どうぞこの辛口の提言をよろしくご検討ください。

【追記】
富士貞房 のコメント: 2011年8月12日 22:07

 私の言いたかったことは、組織論とかといった難しい問題ではなく、すこぶる簡単なことでした。つまり私たちは逆境や非常時においてもなお互いに信頼できる友人であり続けられるかどうか、そして夫婦や家族はどうか、という問題です。
 平和なときや平常時に戦争反対を唱えること、仲間同士の連帯や家族の睦ましさを誇ることは簡単ですが、はたしてそれは逆境や非常時においても揺るがないものであったかどうか。実はそんな大事なことが今回の大震災そして原発事故のあとに問われていたはず。もしもそこに思わぬ弱さあるいは綻びを見つけたなら、それを糊塗することなく真剣に対処すべきであろうということです。そのことについては自分に対して正直でなければ、と思います。もちろん弱点や欠陥の発見だけでなく、思いもかけぬ貴重な宝物を発見したことだってあるはずです。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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改めての辛口提言 への4件のフィードバック

  1. 富士貞房 のコメント:

     私の言いたかったことは、組織論とかといった難しい問題ではなく、すこぶる簡単なことでした。つまり私たちは逆境や非常時においてもなお互いに信頼できる友人であり続けられるかどうか、そして夫婦や家族はどうか、という問題です。
     平和なときや平常時に戦争反対を唱えること、仲間同士の連帯や家族の睦ましさを誇ることは簡単ですが、はたしてそれは逆境や非常時においても揺るがないものであったかどうか。実はそんな大事なことが今回の大震災そして原発事故のあとに問われていたはず。もしもそこに思わぬ弱さあるいは綻びを見つけたなら、それを糊塗することなく真剣に対処すべきであろうということです。そのことについては自分に対して正直でなければ、と思います。もちろん弱点や欠陥の発見だけでなく、思いもかけぬ貴重な宝物を発見したことだってあるはずです。

  2. かとうのりこ のコメント:

    震災後、心に残る読書に
    ドラ・ド・ヨング「あらしのまえ」「あらしのあと」(岩波少年文庫)
    がありました。
    内容はまさに、とつぜんの非常時(ドイツに占領される直前のオランダ)に
    家族や仲間同士がどうたちむかい、のりこえたかという話でした。
    とっさのときにこそ、家族の絆や、利他心の実際が問われると改めて思いました。

    5ヶ月が過ぎて、少し頭が落ち着きを取り戻してきたところで、
    9月1日を経て次の半年の節目ぐらいまでには、
    個人、家庭から各種団体まで、みな非常時の覚悟や行動方針を
    あらためて話し合っておくものだとおもいます。

  3. 宮城奈々絵 のコメント:

    先生の提言、まさに自分が反省すべき点です。地震発生から津波に遭った母と連絡が途絶えた4日間、そして避難所ではない場所に避難している両親に食料が無い問題で一週間、私の状態はおかしかったと思います。子供達に不安を与え、夫には私を支えられないと自信喪失させ……つまり、先生の提言にある通り、私は非常時の自分の心の備え、家族への備えが全く出来てなく、周りに迷惑をかけてしまったのです。先生のblogを読み続けた中で、「そうだ、とにかく今をしっかり生きよう」と心に芯が出来なければ、今もフニャフニャぐにゃぐにゃとした頼りない自分のままだったかもしれません(今現在、しっかりした自分になれた訳ではありませんが…)。私は非常時に利己主義的な人間としての振る舞いはしなかったはず…というのがせめてもの慰めですが、母として妻として個人としてまだまだ未熟だと痛感しています。
    ですが、震災と原発禍の日本という国が(政府・官僚が?会社組織が?)こんなにも未熟で非常時に対応出来ないとは思ってもいませんでした。自分のことや家族は自分で責任を持っていけますが、国や会社には何も出来ないのがもどかしいです。 震災から5ヶ月たってもまだまだ進まない地元の復興や行ったり来たりのあやふやな原発政策…早く国や自治体・官僚も辛口にご自分達を省みられて、いまだ非常時のこの事態にどうしたらいいのか考え、実行して欲しいです。
    そして自分は先生の提言、しっかり受け止めていきたいと思います。

  4. 松下 伸 のコメント:

    見ました。
    奥様・・
    信じ、仰ぎ、尊ぶものを
    神として、造形するのですね・・
    お目にかかれて
    うれしかったです。
    徐さん、
    原民喜のこと
    よくわかりました。
    あれは、芸術ではなく、
    真実を写すことだったのですね・・
    有難うございました。
                  塵(感動)

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