未練がましく

昨日昼前、予定通りわが陋屋をスペインの作家フアン・ホセ・ミリャス氏(1946年バレンシア生まれ)が訪ねてきた。もちろんこれは、震災以後何回か南相馬を訪れいろいろ取材をされてきたゴンサロ・ロブレードさんが事前に私のことを話された結果のことであって、それがなかったらそんな遠国の作家が私の存在を知る由もない。
 その二氏とカメラマン氏の三人を例の通り二階の老夫婦の居室に案内して、初対面の挨拶もそこそこにさっそくミリャス氏からのインタビューが始まった。と書くといかにも私がそうした事態を予想していたかのようだが、実は始まってみて慌ててしまったのである。誠に迂闊なことに、ミリャス氏はロブレードさんから私のことや今回の原発事故に関する私の見解なりをかなりの程度ご存知で、それよりも氏の今回の日本への旅行の感想やら、私のスペイン思想研究の来歴などゆったりした話題から始まるとばかり思っていたのである。
 どうしてあなたは避難しなかったのですか、とか事故後の行政側の対応は適切だったと思いますか、といった当然の質問をされたのだが、先ほども言ったように頭の中ではまったくスペイン語の答を用意していなかったものだから、勢い私の答えは余韻も含みもない通り一遍のものになってしまった。たとえば、避難しなかったのは認知症の妻のことを考えるととても無理と思ったからです、とか、政府の対応は大筋ではまあまあの対応だったが、病人や老人については大きな間違いを犯した、などと答えたが、大筋以外の、たとえば区域設定の見直しがあまりに遅かったとか、補足したいことが山ほどあるのだが、それを繋げていくタイミングを逸して、結局答は平板なものに終始してしまったのである。
 あっという間にそのインタビューが終わった。氏は帰り支度をしながら、本棚の写真とか机周辺の私家本制作現場など見て、なかなかいいリンコン(一隅)だね、と同業者(?)らしい感想をにこやかな笑みを浮かべて言った。いや確かにリンコンと言ったと思うが、そう我が書斎はまさに廊下の片隅だが、まさに使い勝手なわが城であり、そう言われて嬉しくなった。
 ミリャス氏は柔らかそうな黒い皮のジャンパーを着て、なかなかダンディーであったが、同行してきたカメラマンは、氏と同年輩か年上で、もう少し太っていたらサンチョそっくりの人懐っこいおじちゃんだった。彼は私と美子が並んで坐っている写真を撮りたい、と少し離れた位置から何枚か構図を気にしながらゆっくり撮った。彼が持っていたのは小型の、たぶんデジタル・カメラだが、彼自身はどう見てもいわゆるプロのカメラマンには見えなかった。なんだかミリャス氏初めての日本行きに、幼友だちが急遽カメラマン名目で附いてきたといった感じだ。
 二人は日本家屋(と言えるほどのものではないが)訪問は初めてらしく、珍しそうに畳の部屋や欄間などを見ながら降りてゆき、玄関先に美子用に置いていた丸い木の椅子に腰を下ろして寝るとき以外は脱いだことのないらしい靴を、ゆっくり交代で履いた。
 要するに、私としてはいわば不首尾に終わった短いインタビューだったが、帰り際の二人のいかにもスペイン人らしい人間味溢れる(?)立ち居振る舞いに心和まされ、一気に距離を縮めたのである。心からの握手のあと、たぶんありえない再会を約して、彼らは帰っていった。
 しかしそうは言っても、やはり言うべきことを言わなかった後悔の念が、実は後からじんわり湧いてきて、その夜一行が泊まったはずの仙台のロブレードさんに、こんなメールを送った。「ミリャス氏と知遇を得る機会を作ってくれてありがとう。しかしあまり短時間だったこと、とりわけ私のスペイン語力の無さのおかげで、言いたいことが言えなかった。それでせめてこの一つだけでも彼に伝えてください。つまり今回の事故の真の悲劇は、我々日本人がこれまで持っていた精神力や神の代わりに、安楽とか便利さを神にしてきたという悲しい事実が判明したことである、と。
 それに対して折り返しロブレードさんから、了解、ミリャスさんに伝えておきます、とのメールが来た。これで一件落着。と思いきや、またまた未練がましく、再度彼にこう書き送った。「ごめん往生際が悪く(terca resignación)て、もう一つありました。今回政府は被災者の生物学的命は救ったが、彼らの人生を目茶目茶にした、と。
 それに対しては返事が来なかった。さすがにあきれたのかも知れない。
 教訓 外国人からインタビューを受けるときは、あらかじめ入念にリハーサルをしておくべし。
 もちろん、ミリャス氏の書かれる記事の中で、私や私の見解などに触れるスペースがない可能性がある。それでも一人の外国人作家に対して私という人間を正確に分かってもらいたい、という真っ当な思いだけは、どうか分かっていただきたい。おや、だれに向かって言ってるの?

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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未練がましく への1件のコメント

  1. junko のコメント:

    こんにちわ
    ちょっとご無沙汰しました
    きっとその追伸に込めた思いは、彼に伝わっていると思います

    >つまり今回の事故の真の悲劇は、我々日本人がこれまで持っていた精神力や神の代わりに、安楽とか便利さを神にしてきたという悲しい事実が判明したことである
    全くその通りであると思います

    先生曰く、未練がましく だの 往生際が悪い だの
    そういうのって、実に人間臭く私は好きです ^^
    じたばたして生きてるもんで…
    来月また福島に行きます

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