一難去って…

一難去ってまた一難、なんて古い言葉を思い出す一日だった。いやそんな表現が適切かどうかは知らない。しかし実感としては、あゝまたか!と感じたことは確かである。それは姉への電話のときに起こった。
 昨日、思いがけない人から電話があった。数日前だったか、徳富健次郎の『思出の記』について書いた際、祖父幾太郎の弟・豊記大叔父に触れたが、その末娘の美知子さんから電話がかかってきたのだ。最後に会ったのは、彼女がまだ仙台の短大生だった頃だから四〇数年前になろうか。ちょっと年齢的におかしいと思われるだろうが、実は彼女、大叔父がかなりの歳になってからの子なのだ。つまりばっぱさんの従妹ではあるが、親子以上に歳が離れている従妹というわけ。
 そんなこと書いたら彼女には迷惑かも知れないが、でも彼女ももう六〇を越えてしまった。ともかく、この震災がなかったらたぶん起こりえなかったであろう一族再会である。
 前置きが長くなってしまったが、この美知子さんのことや、先日の十和田での健次郎叔父たちの訪問のことなどを話そうと、久し振りに姉に電話をかけたのだが、話が来春ばっぱさんの南相馬へのご帰還に及んだ際、ばっぱさんはともかくとして愛ちゃんたちは戻らない方がいいよ、と言われてしまったのである。従弟の場合は叔父を介して間接的であったが、今回は電話で直接話している最中にその話になってしまった。
 ご想像の通り、一昨日からここで述べた考えをかなり激しい口調で話す仕儀に相成った。まっ簡単に言えば、きょうだい・いとこ同士であれ、たがいの家庭の問題に立ちることはやめましょう、これだけは自信を持って言えるが、従弟や姉に対して、これまでそれぞれ家庭の事情があったときにも、こちらからはいっさい差し出がましい意見など述べたことがないのですから、と切り口上で言って電話を切ったのである。
 なぜそこまで意固地になるの?、とあきれている方もいるであろうが、いや話は実に簡単なのです。これが私たち夫婦自身に関わること、たとえば南相馬は危ないからあなたたちどこかに避難したら、と言われたとしてもこうまで激昂はしないだろう。つまり事は可愛い孫たちに関することであり、それについては自分なりに真剣に、さまざまなことを勘案して、そして当人たちの合意のもとに決めたことに対して、よくもまあ簡単に干渉してくれましたねえ、ということである。
 こんな身内の行き違いまでよく恥ずかしげもなく暴露すること、と思われるかも知れないが、しかし善意で言っていることに対して、それを「突っ張って」断わる方が、世間的には間違いなく分が悪いわけであろうから、まあ大目に見てもらいたい(?)。いやもっとはっきり言えば、あの大震災のあと、相手を傷つけたり中傷することにならないなら、どんな些細なものであれ「わだかまり」を抱えたまま生きることはやめよう、と思っているのだ。つまり明日の命も分からないのに、なにか思い遺すことをそのままにして死にたくはないのである。なにも怖いものはない、と言った真意はこれである。ウナムーノは、なぜ人間は甲殻類のように幾重にも内面を鎧(よろ)って生きているのだろう、と嘆いたが、事実私たちは内面を隠しに隠して生きている。
 むかし東京に住んでいたころ、たとえば終電車に乗り合わせたときなど、一日の労働を終え、サラリーマン、苦学生、ときにマスカラがずれたままの女給さん(古っ!)が疲れ切って吊革にぶら下がっている光景を見ながら、不思議な連帯感みたいなものを感じたものである。そんなとき、だれもが持っている刺々しいもの、構えているものが剥げ落ちて魂が露出している、と感じたのだ。今ならだれとでも友だちになれそう、誰に対しても心からの友情を持つことができる、と。
 たぶんご当人はもうこのブログを見ないであろうから、ここで一つの思い出話をしよう。実はある時、その人が私にくれたメールの中から、とてもいいエピソードをこのブログで引用させてもらったことがある。それはその人自身に関わることではなく、その人が震災後の町なかで見かけた情景を実に的確に描写した文章であった。もちろん断わりなく引用するのだから、名前は伏せ頭文字にとどめた。ところが後日、その人から以後そのような引用は遠慮願いたいと言われたのである。そのことによって何か実害があったのですか、と聞くと、いやそれはない、ただ自分は自分の書いたものが人前に晒されることに慣れていないから、との返事であった。以後その人からの音信は途絶えている。
 現代は不思議な時代である。ケータイ、インターネット、さらにはスマートフォン(でしたっけ?)とかiPhone(でしたっけ?)とか、凄まじい勢いで言葉や情報が行き交っている。それでいて互いに内面を表すことが病的なまでに避けられている。その多くは匿名性という仮面を被っている。そして時にその仮面の陰から、「死ね!日本から出て行け!」などおどろおどろしいしい呪詛が吐き出される。ツイッターとか2ちゃんねるとかいうものに対して、不快感以上の恐怖心を感じて近づきたくもないと思っているのはそのためである。
 しかし震災であれ戦火の中であれ、不思議でもあり感動的でもあるのは、そのとき人々の魂が露出し、互いの内面を臆せず溶け合わせる稀有な機会に恵まれることである。なぜこれまで互いを根本のところでは信ぜず、ひたすら本心を隠しながら、おざなりの付き合いしかしてこなかったかに気づく貴重な瞬間である。
 末期の眼でものごとを見、考え、感じるとは、まさにそのことなのだが。
 ちょっと待て? 話が少しこんがらがってきましたな。続きはまた明日にしましょう。ともかく今日も(おっともう明日になった)疲れてしもた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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一難去って… への1件のコメント

  1. 成澤 弘子 のコメント:

    実は、正直に申し上げて、私は、3月からずっとこのことを考えております。

    3.11以来、一番、私が同じ心とまではいかなくても、その心に寄り添った心を抱いたり、見届けたりという段階を、踏んでゆきたくても、はしごを外された感なのです。
    どうしていいのか、分からなかった課題です。

    どう分かろうかと、悩みながら、お弁当の中の例えを思いつきました。
    年代や、性格、生活暦などの違いから、お弁当の食べ方がみんな違っています。
    お弁当の中身を見せないように食べる人もいれば、人のお弁当箱の中をのぞきたがる人もいて、ウルトラ・プライベートな生きざまが分かってしまうのかしらと。
    私あたりの年代で、しかも、あのようなお嬢さん学校ですと、お弁当の時間、見せ合うどころか、人の分まで作って来る人もいたくらいで。
    いや、本当にお夕飯に召し上がるお弁当の話なら、先生は、とっくにお書きになっていますが。

    ずっと考えながら、なにか文章に直せないものかと、模索しております。

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