恩師、もはや死語か(一)

以下の文章はかつての勤務校の同窓会会報に求められて書いたものである。今日届いた会報の中を見ると、「退職された先生から」のところではなく、「被災地からの声」の一つとして、一人の卒業生の後に紹介されていた。もちろん目次には名前さえ載っていない。恩師という言葉が既にして死語になった時代に生きていることを改めて思い知る。ふだんは序列など気にしない生き方をしているつもりだが、これにはさすがに応えた。ともかく、休み続きの穴埋めにでもとそのまま全文をご紹介する。


原発禍を生きて

                佐々木 孝

 先ほど机周辺の書類を整理中、「麗泉会会報」からの執筆依頼のお便りを偶然見つけた。物忘れは珍しいことではないが、こと原稿依頼に関して忘れたことは今までなかった。高齢化に伴う当然の失念なのか、それともここ半年以上も続いている原発禍との闘いに疲れてのそれなのか。自分としては後者だと思いたいが、それは老人特有の虚勢かも知れない。どちらにしても大差ないが、締め切り期日を守れず申しわけない。
 ともかくこの歳になって、考えてもいなかった事故に巻き込まれてしまった。幸い大津波の方はわずか数キロメートルのところで被災を免れたが、原発事故の方は初め屋内退避区域、次いで緊急時避難準備区域の指定を受け、そしてようやく一ヶ月前に避難準備区域の指定は解けたが、かなりの数の住民が戻らないまま、そしてジョセンなどの対策があまり進捗しないまま、なにか宙吊りにでもされたような不安定な生活がいまだに続いている。
 実はそうした闘いの日々のことは、まず朝日新聞と東京新聞の写真(当時九十八歳の老母とあと少しで三歳になる孫娘と一緒に)入りの記事、二〇〇二年から連日発信していた「モノディアロゴス」というブログ、「週刊現代」七月二日号の記事、NHK教育テレビ「こころの時代」での作家徐京植氏との対談、そして八月末に出た『原発禍を生きる』(論創社刊)などのいずれかでご覧になった方もいるかと思う。だからここでは繰り返さない。ただ清泉の皆さん、とりわけ子育て中の若いお母さん方に関わることをいくつか述べてみたい。
 震災後、かつての教え子たちから数多くお見舞いのお便りや支援物資をいただいたが、中には仁平美弥子(二十三期生、旧姓沢田)さんのように御主人とお嬢さんと一緒に車で訪ねてくださったり、長い間音信が途絶えていた元同僚のガライサバル先生が遠いスペインから何度も励ましのメールをくださったりで、どれだけ力強く、またありがたく思ったことか。
 先ほども言ったように、一時は市民の八割が避難して町の機能はほぼ壊滅してしまったが、特に幼い子供のいる家庭の半分以上はまだ町に戻ってきていない。もちろん将来起こりうるかも知れない健康被害を怖れてのことで無理もないのだが、しかしそのため親(特に老親)と子、夫と妻などが別居するなど家族が分断され、そのための強いストレスの蓄積が現実問題として多くの家庭を苦しめている。
 誤解を怖れずに言うなら、こうしたストレス被害は将来起こるかも知れない放射能によるそれよりもはるかに深刻かつ甚大なのだ。ただその「恐ろしい汚染地帯」に実際に住んでいる私などからすれば、多くの場合、風評被害に似た過剰な心配によるストレスである。つまり遠くから見れば、原発事故現場を中心に赤く描かれた三重丸が恐怖を増幅させている。たとえばある女性新聞記者から聞いてショックだったのは、社の方針として女性、特に若い女性記者が私たちの住んでいる線量の低い区域にさえ社の内規として近づくことを制限しているということだった。
 震災後、たくさんの友人や報道関係者が我が陋屋を訪れてくれたので気づかなかったのだが、世間では私たちはまさに汚染地帯に住んでいることになっているのか、と悔しい思いをしたものだ。この際隠さずに言うが、ある時、他人だけならまだしも身内からもそう見られていることを知って、心底言葉にならない無念さ・悔しさを味わったこともある。
 私たちを襲う病気や死の危険は無数にある。戦争(これは幸いに日本にはないが)、交通事故(日本では年間五千人近くが死んでいる)、様々な食品中毒、様々な理由からの自殺(昨年度だけでも三万二千人、今年は震災の影響もあってそれをはるかに越えることが予想される)、そしてインフルエンザなどウィルス性病原菌による…いやこんな暗い話は止めよう。言いたいのは、放射能被害はそれらあまたある死の要因の、しかも現段階では一人の犠牲者も出していない一つの要因に過ぎないということである。
 先日の台風被害のニュースを見ながら、ある複雑な思いに捉えられた。三月の大地震・大津波もそうだが、多数の死者を出す自然災害以上に、なぜ私たちは異常なまでに放射線を怖れているのだろうか。たとえば甲状腺ガンにしても罹病率は肥満や運動不足によるそれよりもはるかに低いし、現代医学では充分に治療可能な、決して致死的な病ではなく、そして何よりも今後追跡調査などを徹底させれば、早期発見が可能になるはず。
 オックスフォード大学のアリソン名誉教授によれば、現在被災地の到達目標数値とされている年間一ミリシーベルトなどはまったく根拠のない馬鹿げた数値で、避難民全員の即時帰郷を強く勧告している。しかもその千倍でも問題ないと言っているのだが、話半分としても充分傾聴に値する専門家の意見である。しかし今の日本では、悲観的でいささかヒステリックなゼロ目標を求める大合唱が巻き起こっていて、そうした意見などまったく聞こうともしない。つまり実体も実質も伴わない恐怖心が亡霊のように日本全体を覆いつくしている。
 そうでありながら、この期に及んでもなお「同胞」の約半分は生活の利便を優先させて原発続行を容認している。こうした現状に対する無念さ、いや怒りさえ感じながら、かつての老教師が清泉関係者の皆さんに心からの理解と応援を(そう、同情はいりません)お願いしています。しかしはや予定の容量を越えています。最後に、皆さんのご健康とご活躍をお祈りしながら、いささか慌しい感のあるメッセー-ジを終わらせていただきます。お元気で!
(ブログはほぼ毎日発信しています。お暇のときにでもどうぞ。)

二〇一一年十一月四日記

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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恩師、もはや死語か(一) への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

    師弟と言うと私は、中江藤樹と大野了佐を思い出します。出来の悪い了佐を藤樹先生は決して見捨てず、立派な医者に大成させました。師というものは、父母に代わって子供の本質、本分を受け取って伸ばし、その素質と能力を発揮させ、導き出す人だと私は思います。人々は世に知られるとか、大衆の評判に上るということを自己の発揮、成功と思いがちなんでしょう。しかし、それは大衆的であるが、普遍的というものではないと思います。それゆえ、藤樹先生は万人の師になれたんだと思います。

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