最近は、というよりもうだいぶ前からだが、美子はほとんどテレビに興味を示さない。なるたけ動きのある画面、となればNHKの教育テレビ、今はEテレと呼ぶらしい、の子供向け番組がいいのだが、それもあまり見ないようになってきたのである。音楽療法※というわけではないが、この頃はむしろCD、とりわけ以前好きだったテレサ・テン、加藤登紀子の歌を流すようにしている。今日はトリオ・ロス・パンチョスだったが。
玄関からのインターホンは見事解決したが、今度はCDだけじゃなく、録りためていたカセット・テープをなんとか聞けるようにしようというのが新たな課題となった。実は二階にあったカセット・プレイヤーは、大地震の時に棚から落ちて、右のスピーカーに繋がっていた電線の差込み(?)がどこかに飛んでいったのか、いくら探しても見つからないのだ。
つまり新たなミッションは、CDプレイヤーに繋がっている高さ50センチ近くの大きなスピーカーになんとかカセット・プレイヤーも繋ぐことである。施設から先日戻ってきたばっぱさんの遺品の中にも、「人生の並木道」などの古い歌謡曲や、老人たちのアイドル氷川きよしの「ズンドコ節」などのカセットもあったので、それらも美子に聞かせてやろうと思ったのだ。仕方ない、古いプレイヤーに見切りをつけて、量販店から安いプレイヤーでも買ってこようか。
しかしスピーカーにしろプレイヤーにしろ、むかし子供たちが捨てようとしていたのを取って置いたもの、なんとか蘇生させたい。最近テレビで人気のある片付けのプロの女の子(ネットで調べてみたらすぐ分かった。「ときめき片付け術」の「こんまり」こと近藤麻理恵である)の逆の術である。ともかく今の世の中あまりに物を捨て過ぎる。物にも魂があるとは思わないけど、いつかバチが当たる。
といっても、プレイヤーの差込み口に入れる、あれ何て言うの、つまりイヤホンなどの先端にある金具、弱電流が二層に分かれているやつ、が無ければどうにもならない。どうにもならない? いやなんとか作ってみようじゃないの。要するに音声用のコードの二本の電線の一方をもう一方より3ミリほど短くして、差込み口に入れてみたら?
これがうまくいったんですわ。電線が金具と同じ位の太さと硬さなので、ちょっとやそっとでは抜けない。ただ問題は一つのスピーカー(ステレオですから合計二個ですけど)にCDとカセットのプレイヤーの電線を一緒にして、果たしてうまくいくかどうか、でした。恐る恐る試して見ました。ピンポン! これもうまくいったんですわ。
実は大震災前、大昔狂ったようにFM放送から録りまくったクラシック音楽のテープ(たぶん何百本)をCDに変換する機械(クラシック調の大きな電蓄みたいなやつ)を買ったのだが、操作が難しく、放置したままになっている。しかし今回決心した(というほど大げさなものじゃないが)のは、カセット・テープはカセット・テープとして擦り切れるまで聴いてやるのが情けというものじゃないかな、ということですわ。つまりやたら新しいものに乗り換えるんじゃなくて、私自身がこの体で最後までがんばるように、それぞれの器具もそれぞれの寿命が来るまで大事に使ってやるのが人の道、いや物の道じゃなかろうか、ってね。
長々とつまらぬ話をしてきましたが、でも私はこう思ってるんです。『神は細部に宿りたもう』と。つまり人生の真髄は、大それたスローガンや大仕掛けなパフォーマンスの中じゃなくて、日々の細事の中にこそあるってね。或るドイツの美学者の言葉らしいけど、私はそのように解釈してるんです、はい。
※後から気づいたのですが、家に山ほどあるフォルクローレのリズムは、他の音楽より美子の体と共鳴(?)するらしい。だから今我らの居間に、インディオたちの明るいがどこか悲しい(だって侵略者スペイン人たちにさんざ痛めつけられたんですもの)メロディーが響き渡っていますです。おっと忘れました、わが友菅・川口組のデュオ・スフィアの妙なる響きも美子は気に入ってるようですよ、今さら言うまでもありませんが。
「人生の真髄は、日々の細事の中にこそある」。先生の言いたかったことは人間の誠実さのことのように思います。ヒルティが『幸福論』の中でこんな事を言ってます。「人間の真の誠実は、たとえば礼儀正さと同じように、小さなことに対するその人の態度にあらわれる。これは、ある道徳的基盤から生ずるものであるが、これに反して、仰山らしい誠実は、ただその人の習慣とか利口さにすぎないことが多く、まだそれだけでその人の性格を明らかにするものではない」