二階から一階に越してきて、もうすぐで一ヶ月になるか。アリンコのように少しずつ少しずつ身の回りのものを運ぶのも一段落といったところ。小型冷蔵庫やトースターやチン、あれ何て言いましたっけ、そう電子レンジ、は当分そのまま二階に置いておくつもり。朝食だけは相変わらず夫婦だけで取るので本当は下に運んだ方が便利なのだが、そしてとりわけ今は朝方の階段の上り下りは辛いのだが、せめてこのくらい歩かないと運動不足になるので、敢えてそのままにしている。
まだ残っていたいちばん厄介な作業も今日とうとう終えた。つまり玄関と居間を結ぶインターホンの付け替えである。玄関から二階居間までが離れているので、インターホンがどうしても必要だったのだが、一階に移っても事情は同じ。お客さんの画像は必要ないが声の応答は不可欠。ところが昨日の午後、二階まで来ていたインターホン用の送電線を下まで引っ張ったまではいいが、交流電線と弱電線(音声用)の接続を取り違えて、受話器の方を壊してしまった。すでにあたりは暗くなっていたが、車で再度(最初は電線だけの購入だった)量販店に行って新しい器具一式を買ってきた。アイホンという手ぶらで話せるやつだ。思ったより高価だったが意地でも昨日のうちにケリをつけたかったのだ。
少し奥まったところにひっそり暮らす老夫婦にとって、これで世間と繋がったような安堵感を覚える。もっとも来客といっても、ふだんは宅急便のお兄ちゃんか、時おり訪ねてくれる西内君くらいなものだが。
いや今晩はそんなつまらない報告をするつもりではなかった。久しぶりに胸躍る体験を…いや待てよ、こちらの方も報告するまでもないか。でもひっそり暮らしている私にとっては、やはり嬉しい体験だった。
ふだん夕食の後、爺さん(私のことである)はしばらく愛と遊んでから美子をそのまま残して、ひとり暗い廊下を通って夫婦の居間に戻ってくる。美子が頴美に送られて部屋に戻ってくるまで特にやることはなく、やりかけの仕事(今は私家本の印刷や製本)をテレビを見ながら続けたりしているが、今晩は久しぶりにトリオ・ロス・パンチョスのCDを聴いたのだ。あのぴんと張りつめた弦から流れ出る高音のラテンの音色、甘いボーカルの心地よい響き、いつしか私も歌っていた。「ベサメ・ムーチョ」、「ある恋の物語」、「キサス・キサス」…
私、これでも結構歌えるんです。我ながらいい声してるんです。ベッサメー・ベッサメ・ムーチョ、コモ・シ・フエラ・エスタ・ノーチェ・ラー・ウルティマ・ベース(あたかも今宵が最後の夜であるかのように)…
若夫婦の住む棟から遠く離れ、お隣のMさんちからも遠く離れ、私の歌声は次第に迫力を増して大きくなり、やがて夜空へと消えていきます…
忘れていましたこの感覚、このごろは、あと何年生きられるんだろう、なんて暗いことばかり考えてました。あのはじけるような旋律、燦燦と輝く太陽、青い空、汗ばんだ肌をくすぐりながら吹いていく微風…
そうだ明日は美子にも聞かせてやろう。美子も大好きだったトリオ・ロス・パンチョスの歌声。
このくそ寒い冬もいつか去り、若葉が萌える春が来る、そして咲き零れる桜花、さらに新緑の五月、…本当に今年もいつものように季節はやって来るんでしょうか? あのくそ忌々しいゲンパツ事故にも負けないで、いつものように季節は移り変わっていくんでしょうか? いや絶対そうなってほしい!!! ゲンパツ事故なんてもう金輪際起こってほしくない。この日本からすべてのゲンパツが消えていってほしい、そして世界からも。
見たくもない、聞きたくもないけど、またぞろキナ臭い動きが、この日本にもこの世界にもくすぶり始めている。負けないように元気を出さなくちゃ。とりあえずはベサメ・ムーチョでも歌って元気出そっ!
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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