かさこの女の子

ひと月前から夫婦の居間に使っている部屋に、ばっぱさんの三棹(さお)の箪笥、さらにばっぱさんの母親、つまり私の祖母の茶箪笥つき箪笥一棹があって、全部を調べたわけではないが、それぞれにいろいろ珍しいものが入っていそうだ。それはこれからのお楽しみ(?)、ゆっくり探索するつもりだが、今日は積み重ねたままだった段ボールの一つ(つまり他にもいくつかある)の中身を出してみた。
 ばっぱさんが習っていた琴の楽譜というのだろうか、宮城道雄作品集(せきれい、こすもす、うわさ)など四冊あった。琴本体も二階座敷に立てかけてあるが、いつか頴美か愛が習うこともあるのだろうか。ともあればっぱさん、一人暮らしでいろいろと趣味を広げていたようだ。中に「インコの飼い方」の本もあった。そういえばある時、バッグに入れて旅行に連れて行った(?)はいいが、とうぜん可愛そうにも死なせて(はっきり言って、つぶして)しまったこともある。そういうところは分別が無いというか、よく言えば豪快(?)なばっぱさんだった。
 箱の底の方にあった四種類ほどの名刺を見てみると、いろんな肩書きが並んでいて壮観である。すなわち会員ならびに世話人として「橋本町一丁目老人クラブ寿会、中国残留帰国者後援会、県文化センターであいの会、夜ノ森公園自然愛護会、二十一世紀懸橋の会、虹の会、原町横笛の会、原町幼児教育友の会、身友会相談役、あすなろ福祉協力会」、ざっとこんなところである。
 しかし私にとってこの日最大の収穫は、一冊の文集だった。つまり『長城の壁のもとで 灤平(らんぺい)県記念文集』(1988年、非売品)である。B5判150ページほどの文集で、発行所は岐阜県各務原(かかみがはら)市の灤平会となっている。つまりかつて旧満州熱河省灤平県に住んでいた人たちの文集である。ばっぱさんも何か寄稿しているかと目次を見てみると珍しく無い。ただ「お便り」欄にこんなメッセージを寄せている。

 私共親子には灤平は忘れられない、そして主人が在職中に病死殉職した処として、正直思い出すさえ辛い悲しい処ですので、子供達も今になって書く気などないようで、私も皆さまのお書きになったものを読ませて頂くのが精一ぱいという気持ちです。そんな訳で寄稿の件はどうぞ御了承下さいまして、記念文集はぜひ一冊だけ頂き度く、よろしくお願い申し上げます。

 第一回が1977年弘前市で、以後毎年一回開催で1987年の福島市での第11回が記録されているが、さてその後どうなったのだろうか。御多分にもれず、会員の高齢化に伴って自然消滅したのであろうか。ばっぱさんはそのうち、何回か参加したはずだが、前掲の便りの調子では参加する熱意が消えてしまったように感じられる。たぶんかつての思い出話だけではなにか満たされないものを感じ始めたのかもしれない。つまり「日本人はすべてはじめからやり直さなければならない」と死の直前まで嘆いていた亡夫の思いと当時の日本人社会そのものの意識から一向に抜け出せない会員、とりわけ旧軍人たちの気持ちと齟齬を感じざるを得なかったのかも知れない。
 ただ中に掲載されていた何枚かの当時の写真の中に父や家族の顔、そして幼い私自身の姿も見れたのは望外の発見であった。
 もう一つ、箱の中から出てきた古びた『中等作文辞典』(落合直文閲・森下松衛著、明治37年、明治書院)の表紙裏に祖父安藤幾太郎の次のような書き込みが見つかった。

 千代は大正三年九月二十五日安達郡熱海温泉より太田和の祖父母と八日目にて正午の汽車にて小高へ帰りぬ。かさこは全快せり。前夜は岩沼まで来り岩沼で一泊したり。頗る元気なりしが、歳僅かに三歳なり。此の日鈴木久次郎にて法事あり、行き居りたり。

幾太郎識るす

 三歳といえば今の愛と同じ歳。その頃の写真を見ると、顔も愛にそっくり、ということはばっぱさんにも当たり前だが可愛い女の子の時代があったということだ。文中「かさこ」という言葉が出てくるが、「かさぶた」つまり「おでき」のことだろう。面の皮は厚い方だったが、皮膚そのものは意外に弱かった。むかし帯広に住んでいたころの或る冬の夕方、顔中透明人間のように包帯を巻いて勤めから帰ってきたことがある。その皮膚の弱さは兄や私にも伝わって、毎年、冬の一時期、顔に湿疹ができて弱っている。それでもやっぱばっぱさんが懐かしいっす。

巻末に「明治三十七年十月十四日購求 日露両軍遼陽以北ニ小衝突アリ 旅順未落」の書き込みがある。第二回総攻撃(十月二十六~三十日)直前の衝突のことであろう。そのとき長兄井上松之助は従軍していたはず。後に勲功を認められて金鵄勲章をもらった。頬に銃弾貫通の跡があった。そのためもあって、小高岡田地区では畏れられた存在だった。私が小学校五年のとき、帯広から一家で小高に移住して彼の隠居座敷に居候の身になりながら、唯一ヘンカ返した(口答えした)のがこの私だったとか。あゝすべては遠い昔なり。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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