このところ連日天気がぐずついている。春の訪れの前の足踏みだといいんだが。その小雨の中、ちょっと用があって西内君宅に車で向かう途中、市民会館(通称ゆめはっと)の周囲に人だかりがしている。気になりながらも用を済ませ、帰りがけにもう一度見てみたら、「東日本大震災…追悼集会」という立て看板の字が目に入った。一周年が近づいていることは分かっていたが、それが今日だとそこで初めて気が付いた。実は先日のテレビ番組に懲りて、テレビを点けていなかったので分からなかったのだ。
でも言い訳がましく聞こえるかも知れないが、それは犠牲者の追悼を軽んじているわけではない。けれど大きな集会場かどこかでセレモニーをすることと、個人個人が、たとえば私が、魂の奥底で犠牲者の死を悼む、いや悼むだけでなく、それをいつまでも忘れないでいることとは、ほとんど別のことだとさえ思っている。どうにも説明しにくいことなので、以前、私の親しい友人の死をめぐって体験したことを綴った文章があるので、先ずそれを読んでいただきたい。
父の日の「縁切り」式
いつもなら父の日に贈り物をもらうことなどめったにないのだが、今年は珍しくささやかな(とこちらで言っちゃいけないけど)贈り物をもらった。ちょうど母の日には中国の実家に戻っていて祝うことが出来なかったその埋め合わせ(?)でもあろうか、息子の嫁からもらったのだ。毎年妻が子供たちから祝ってもらうのを横目で見ているだけだったが、やっぱりうれしい(といって、けっして来年の催促をしているわけではない)。
それはともかく、父の日で思い出す悲しいできごとが一つある。それは1997年(平成9年)六月、庭のアジサイが咲き始めた雨もよいの第三日曜日のことである。その年の三月末、そのころ勤めていたJ女子大でながらく一緒に仕事をした元学生課職員の長尾覚さんが、半年あまりの闘病生活の末、亡くなられた。葬儀には、現役の偉い教授や役職者の葬儀もかなわないほどの、たくさんの卒業生や在校生が参列した。就職活動の学生のために休日・日曜返上など当たり前のように献身的に働いてきた彼の遺徳を慕っての自然な流れであった。
その前年、事実上は存在しない定年(なぜなら当てはめられる人、そうでない人の基準はいっさい明かされない制度だったから)で職を辞さなければならなかった彼に、まもなく追い討ちをかけるように肺ガンが発見された。余命半年という診断である。しかし病院に見舞うたびに元気をもらったのは私の方だった。だがガンとの死闘空しく、病室の窓から遠く満開の桜が見える三月末、とうとう帰らぬ人となってしまった。
彼の入院のために家計が苦しくなり、奥さんは新宿のホテルでベッド・メーキングのアルバイトをしているとの噂を聞いていた。それで葬儀の準備の折だったと思うが、妻と親しかった上層部の人に、断られてもともという気持で、なにか学園の清掃のような仕事を未亡人のために考えてもらえないだろうか、ともちかけたのである。ところが案に相違して、それなら大いに可能性があります、との力強い返事をいただいた。
しかしその後それに関して一切の連絡がないまま時間が過ぎていった。ローンの支払いが滞るようになったので遺族は自宅を手放し、市営住宅の方に転居したのはその頃だったか。そして六月の下旬、とつぜん学園の方から、今度の父の日、ご遺族と私たち夫婦を招いてミサを上げたい旨の連絡が入った。そして寒々としたミサのあと、どこの部屋だったか(教室?)記憶が飛んでいるが、出前の寿司を出され、型通りの挨拶のあと学園を後にした。遺族はひたすら恐縮していた。
信者でもない遺族のために父の日に死者ミサ、そして寿司の供応? 坂道を下りながら、その不思議な供宴の意味をとつおいつ考えていた私の頭にとつじょひらめくものがあった。そしてそれは、口が裂けても遺族には伝えられないものであった。つまりその日のミサならびに寿司の供応は、ていのいい「縁切り」の式だったのである。つまり以後、学園と遺族はいっさいの関係はございません、あとは時おりのミサで、「学園の恩人」という総称の中にあなた方の夫もしくは父親を加えさせていただくだけの関係です、との暗黙のメッセージだったのである。
爾来、「死者のための祈り」とか「恩人のための祈り」など、死者をひたすら「祭り上げる」祈りに対して、決定的に疑ってかかることにした。「祈る」だけでなく「行う」ことを伴わぬインチキ祈りなど、犬にでも喰われてしまえ!と思っている。10年以上も前のことをなにを今さら、と思われるかも知れない。十年は一応の「時効」の年月、当事者はだれとだれであったかなど生々しい詮索などかんたんにはできない年月。
で、それとはちょっと矛盾する言い方ではあるが、だからこそあの「事実」そのものを決して忘却の彼方に消えさせてなるものか、という強い憤りの思いで、ここにしっかり記録したくなったのである。(2009/6/28)
このエピソードと今回各地で行われているであろう追悼集会とを強引に一緒にするつもりはない。しかし追悼式によって「一応のけじめ」をつけようとしていることにそう大きな違いはない。
だったら言いたい、一応のけじめなんて犬にでも食われっちまえ! けじめなんてつけてはならないのだ。死者を黄泉の国に送り込んで、次の何周忌まで忘れちゃっちゃーいけないんだ。いつも私たちの側にいる、もっと正確に言おう、私たちの魂の中に生きている死者たちを瞬時も忘れてはいけないんだー!
いまでも考えるたびに涙が溢れ出てくるよー、この震災・原発事故のあと、馬鹿な指示、愚かな判断で、死ななくてもいい老人や病人たちが何人、いや何十人、いやいや何百人死んだことかーっ!まったく浮かばれないよー、逃げたくもないのに、家を離れたくもないのに、無理やり担ぎ出されてよー、暗い夜道をよー寒い夜道をよーっ…
肉親といっしょだった者はそれでもいいよ、でも病院や施設から無理やり移動させられた者の驚き、悲しみ、そして怒り…そんなもん、菊の花飾った明っかるい会場でよー、喪服を着てかしこまった遺族を前によー、どこぞのお偉いさんが形ばかりの弔意を示したって、救われないよー、たまらないよーっ!!!!!!!!
家のばっぱさんだって、相馬で死にたかったんだよー、チキショー、俺初めて言うけど、本当は悔しいんだぞー、追悼集会なんて犬にでも食われっちまえーーーーー!!!!!
澤井兄
もちろん澤井節はいつもは楽しく読ませていただいておりますが、たまには以前のように、私の言っていること、いや言いたかったことを読み取って、そして反応してくださいな。よろしく。
そのように書けなかったのだから多くを要求するのは無理かも知れませんが、今晩のモノディアロゴス、後半部は泣きながら書きました。こんなことは今まで経験したことがありませんでした。すみません、とんだ楽屋落ちの愚痴になりました。歳でしょうか。
テレビは見ません。
ラジオは、聞きます。
昨日は、テレビもラジオも・・・でした
鎮魂などと漢字で書くからセレモニーになる
儀式だから魂が抜ける。抜けるほど盛大なセレモニー
「たましずめ」。
ひとり問う、心のたましずめ
たましい・ことば・ロゴス
「がしとうし」の迫力はここにあるのでは・・
ちり
佐々木孝先生
ご無沙汰しております。
東京外国語大学の立石博高です。
私の友人のスペイン人(Salvador Martinez)が、震災前から南相馬の伝統芸能に関心を持っており、祭りの写真などを発信してきました。人づてに先生のことをお聞きして、ぜひコンタクトをとりたいということです。
先生のメールアドレスなどをお知らせ願えますでしょうか。
この間の先生のブログを読ませていただきました。その地に根差したご発言に、上っ面な気分ではいられないことをあらためて自覚しました。
どうか、お元気にご活躍ください。
立石博高
立石博高先生
お久しぶりです。よくぞ見つけてくださいました。なんとか生き延びております。と言うより、震災後いろんなことに怒っていて、その怒りを糧に生きてます、ちょっとオーバーですが。
ご友人のサルバドールさんには一つ前のコメントに下手なスペイン語でお答えしたのですが、見つけにくかったのかも知れません。いちばん簡単なのは、右上にあります「富士貞房と猫たちの部屋」というホームページ本体への入り口から入っていただき、そこにメールへと通じる小さな…おっとこれだと日本語が読めない彼には無理ですね。ここに改めて書きます。 fuji-teivo@nifty.com です。
それはともかく、これを機会にこれからもまたぜひよろしくお付き合いください。ではまた。
けじめなんてつけてほしくない、というお気持ち、お察しします。
そんなときばかり段取りもよく周到に準備して・・・きれいな会場で
空々しいセレモニーを盛大にひらいてくれて、だれのためなのでしょう。
一人ひとりが個人としてすればいいことを集団でやってみせるというのは、
たしかにほとんど別のことと言ってよい気がします。