桜前線通過

いま南相馬は桜の中にある。2002年に移って来た当初は、庭の真ん中にも桜の巨木があり、ちょうど今ごろは家全体が桜の中に埋没していた。美子はそこが大いに気に入って、まるで気が狂いそうだ、と言い言いしたものである。しかし虫が付いているのと、秋の落葉の量が半端でないこともあって、確か二年目に思い切って伐ってもらうことにした。おかげですっかり明るくなったが、その祟りか、その年は家の中に動物に付く蚤が異常繁殖して、しょっちゅう掃除機をかけなければ、直ぐ脛などに蚤がしがみついていた。
 いま考えてもザワっとする。その頃元気だった姉弟のきょうだい猫が外から持ってきただけではなかったはずだ。大きな木を伐った後にこういう現象があると聞いたことがあるが、真偽のほどはまだ調べたことがない。
 愛たちが毎週土曜のバレー教室から戻ったあと、午睡中の美子を置いて、車で郵便局に出かけたが、この春うららの午後のひととき、急に御本陣の桜が見たくなった。この時期、必ず美子と出かけたことを思い出したからである。旧街道を雲雀が原のところから左折すると、桜のトンネルが始まる。それまでかけていたテープ音楽を切った。ちょうど「エデンの東」のテーマ音楽のところだったが、なぜか涙が溢れてきて、運転できなくなりそうだったからだ。いや音楽のせいではない。昨年は美子と同じ道をたどったことを急に思い出したからだ。美子が桜が見たいと言ったら、言わないまでも桜を見て喜ぶのなら、絶対に美子を連れて来たであろう。そのために中古ながら福祉車両に換えたのである。だがいま美子は桜を見ても、たぶん分からないであろう。それが悔しくてならない。
 だから涙は悔し涙である。雲雀が原全体を見下ろせる小高い場所に車を停め、丘の上まで続く小道を登っていった。美子と歩いたその感覚がとつぜん蘇ってきた。そうだ原発事故のあとはひたすら夜の森公園に通いつめたが、一昨年の秋あたりまでは、散歩はもっぱら御本陣やその裏手にある東ヶ丘公園だったこともついでに思い出した。美子が次第に歩行が難しくなって、徐々に散歩コースを短くしていったのだった。
 あゝもう一度美子と手を繋いで歩きたい! 一緒に丘の上から西手に聳える、と言いたいけれど、たかだか五百メートルしかないから、横たわる国見山の日没を眺めたい!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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桜前線通過 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     聖書の中に「愛は寛容であり、愛は情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」とあります。コリント人への第Ⅰの手紙第13章 何故か私の脳裏に閃きました。

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