フランス原発事情(その一)

ここ数日、たて続けにいろいろ不如意なこと(とボカすしかないが)が続いていて、先日も言ったように、兎角にこの世は住みにくい。原発事故の後遺症か、それとも単純に歳のせいか、やたら気になることが多すぎる。
 唐突で相すまぬが、関係者が読んでいたら分かってください。ばっぱさんは十和田にはもういません。確かにお骨はまだ十和田ですが、亡くなったあとまっしぐら、といったら箒にまたがった魔女みたいに飛んでくるイメージになりますが、懐かしい先祖の地に、半世紀以上も前に自分が建てた、そして柱の一本一本、時にきしむ床の一枚一枚に愛着のあるこの住み慣れたわが家に帰ってきております。ばっぱさんにとっては単に一時的な逗留先であった十和田での無聊の日々を、まるで守護の天使のように慰めためんこい愛や優しい頴美のもとに、もうとっくに帰ってきておりまする。
 私は仏教徒でも何宗の信徒でもありませんので形式にはまったくこだわりません。いやばっぱさん自身がそういうことにまったく頓着しない人でした。以前、イケメンのテノール歌手が情緒纏綿に歌い上げましたる「千の風になって」など当たり前田のクラッカーです。ただ年寄りなので風になって飛んではいません。この橋本町の家の中の陽だまりで、美子と並んでうつらうつら舟を漕いでおりまする。
 十和田での葬式には行けませんでしたが、代わりに七月三十日、南相馬のわが家で百歳の誕生日を祝ったあと、公園墓地に納骨するつもりです。でもその後、あんな寂しい墓地にはいません、ボロ屋ですが曾孫の声がいつも聞こえる橋本町のわが家にずっといるそうです。こう言ってます。「美子さんは話せませんが、死んだ私も話せませんので、これからは二人仲良く椅子に座って、いつまでも、この家がもはや住めなくなる日まで、ゆっくりゆっくり日を送るつもりです、はい。」
 しめっぽい(ではないか?)話はここまで。ぐっと明るい話に切り替えます。といって内容自体はけっして明るくはないのですが、先日ここから呼びかけた例のご夫人からのお返事が、南仏の輝くばかりの陽光と岡の上を吹く微風を引き連れて届いたと思ってください。最初の個人的なご挨拶の部分は省略して、ずばり核心部分をそのまま写します。

 …そして5月2日の「或る私信」、びっくりしましたが、すごくうれしかったです。それでこの一年間のフランスを書いてみようと思います。
 フランスの大統領選挙も終って、いつものように時が流れています。私は政権が変わったので少しは何か良くなるかしら期待しているのですが、まわりは何も期待していないようです。唯一聞いた言葉は「オランドの方がサルコジよりましだ」でした。
 フランスの原発のことは大統領選の時でさえ問題にされませんでした。ただサルコジさんが大統領になれば、原発一基を廃止すると約束したようですが、それも無しになりました。フランスの社会党も共産党も原発が無くなれば経済危機に陥ると考えているようなので、原発を廃止することはないのかも知れません。
 フランスは風力発電の風車が本当にあちこち驚く程あります。ますます増えている気がします。太陽パネルも、個人の家も大きなスーパーの駐車場の屋根にもとりつけたりしていますが、それでも原発の1%くらいだそうです。
 3.11の後、たくさんの人たちからお見舞いの言葉をもらいました。毎日、地震と津波の映像がフランス人に恐怖を与えていました。福島について、原発についての心配を聞いたのは6月の終り、プロバンスへラベンダーを見に出かけたときに泊まった Chambres D’Hotes(民宿みたいなもの)のご主人が「ここはローヌ川の原発の近くなので、もし福島のような事故があれば、どうすればよいのか、すごく心配だ」と話していました。
 フランスの原発はほとんど大きな河にありますので、フランス政府はフランスでは日本のような事故は起きないと確信しています。はじめの頃は原発反対運動があちこちでありましたが、今は本当に何も聞こえません。
 フランスで原発に反対している人たちのグループは二つあります。ひとつは自然保護の立場から反対している人達。でもこのグループは今度の大統領選で自らの失態で信用を失ってしまったようです。もうひとつのグループはテロや戦争の時に標的になるという立場からです。フランス政府は空からの攻撃は完全に防げるとしていましたが、最近二つの事件が起きました。

 さてどんな事件だったのでしょう? 長いので後半部分はまた明日のお楽しみ(?)。それにしても理性的であることを誇ってきたフランス人が、危険な廃棄物はともかく地下深くに埋めるしかないというおよそ非理性的で愚かな処理法をどう整合させようとしているのか、実に不思議に思えます。おっと、この日本の現状を考えると、そんな偉そうなことはとても言えませんな。ではまた明日。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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フランス原発事情(その一) への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     文章を読んでいて、机上に無造作に置いてある『原発禍を生きる』の帯にある写真のように、お母様が生きているかのような錯覚を覚えてしまいました。そして、一つの言葉が頭を過りました。「ばっぱさんとともに生きていくことにしようと思っているのだ」(2012年1月6日「別れではなく」)。先生のお母様に対する温かな心遣いが「柱の一本一本」「床の一枚一枚」「うつらうつら舟を漕いで」「ゆっくりゆっくり日を送る」という噛んで含めた表現から伝わって来ます。『モノディアロゴス』2002年7月20日「近代日本と記憶」の中で先生がこんなことを言われてます。「近代日本はあまりにも多くのものを亡失してきた。家屋だけならまだしも、村や町そして嗚呼(!)自然までも大量に処分し焼却してきた。永遠の生命とか来世が保証されていない以上、さしあたって人は記憶を大切にし、それに頼らなければならないのに。死者たちも私たちが『思う』そのとき、初めて私たちの中に『生きる』のに」。10年前に書かれたことを、そのまま実行されている先生の一貫性のある生き方、そしてそこから紡ぎ出される感性豊かな言葉の表現力に私はお母様が生きているかのような錯覚を覚えたのかもしれません。

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