空白の十分間

先日来、安岡章太郎さんの『志賀直哉私論』(1983年、講談社文庫と『小説家の小説家論』1986年、福武文庫の合本)を飛ばし読みしていたが、祖父直道についてのくだりがなかなか面白く、そこからスポット読みに切り替えた。直道は二宮尊徳の弟子で、明治維新後は相馬藩の権知事、福島県大参事、そして疲弊した旧藩主相馬家の家令となり、足尾銅山の開発に尽力した人である。
 直哉が十歳のとき、この相馬家に有名な事件が持ち上がる。つまり旧相馬藩士錦織剛清が前年死んだ旧藩主相馬誠胤の死因は毒殺なりと主張し、直道を含む関係者が75日間拘引された事件である。嫌疑は晴れて免訴となるが、後年、直哉はこの事件を題材とした「想い出した事」を書く。このあたりのことを安岡さんは資料を駆使して実に面白く描いておられる。
 資料で想い出したが、たしか箱根かどこかの宿か出版社の別荘かで、安岡さんがこの本の執筆のために製本し直したばかりという古い文献を私に見せてくださったことがある。なぜ私が箱根くんだりまで行ったのか、記憶はすでに薄明の中だが、もしかするとそのころ私が属していたイエズス会の施設が箱根にあり、そこを訪ねたついでに安岡さんの宿にお寄りしたのではなかったか。昭和40年ころの話である。
 安岡さんはこの直哉論の調査のため相馬を何回か訪ねられたが、そのうちの一回は手前の原町駅で下車して我が家に寄ってくださることになった。それで、そのことをばっぱさんに連絡し、寄られた場合は適当なおもてなしするように依頼した。しかし結局その時はお寄りにはならず、ばっぱさんががっかりしたことをぼんやり思いだした。ともかくこの本執筆の過程で、すれ違いながら二度まで至近距離に身を置いたことになり、その意味でも飛ばし読みなどもってのほかの大切な本なのだ。
 ところがその『志賀直哉私論』を読み終えてもいないのに、今日は便所へ行きがてら途中の書棚で見つけた山本周五郎の『樅の木は残った』(上下、新潮文庫、1963年)の蘇生術もしたのである。こちらはいわゆる伊達騒動を描いた小説だが、1,050ページほどもある大長編である。相馬事件よりずっと前の事件ではあるが、こちらは講談や歌舞伎・浄瑠璃の題材にもなった。ともかく東北の二つの藩がそれぞれ派手なお家騒動をやらかしたわけである。
 しかしこれは私ではなく美子が読んだ本で、購入したと思われる昭和38年といえば美子がまだ高校に入ったか入らなかったころだ。たしかドラマ化されたはず、と調べてみると、NHKの大河ドラマになったのは7年後の1970年。すると美子は何がきっかけでこの本を読み始めたのか。周五郎作品は他にも『あんちゃん』と『寝ぼけ署長』(共に1981年、新潮文庫)があるが、これはずっとあとの静岡時代、美子が専業主婦でかなり自由な時間を楽しんでいた時代に購入した本である。山本周五郎が好きだったのだろう。もっとたくさん読ませたかった。ともかくこと読書に関して私とはまったく異なる傾向と興味を示していた。前にも言ったが、美子の愛読書だけを収蔵する本棚を作ってみたい。
 さてその美子のことだが、実は今日、私にとってかなりショックなことがあった。そのことはこうして書いている今も尾を引いている。
 いつもの通り、デイ・サービスからの帰りを石原クリニックで迎えたときのこと。美子を引き取って玄関口に入ったとき、今日はいつもより患者さんが多く、下駄箱に収まりきらぬ靴がたたきのところに10足ほど並んでいた。本当は車椅子が通れるようにそれらを脇に片付けてから入るべきだったのだが、乱雑に脱ぎ捨てられたそれら靴にちょっと腹が立って、そのまま踏んづけて入ろうとしたのが間違いのもと。つまりかなり大きな靴に乗り上げ、その拍子に美子が車椅子の前方にずり落ちてしまったのである。
 さあこうなると美子の重さは半端じゃない。先ずストッパーをと思ったが、美子を抱きかかえたままでは手が届かない。ちょうど入ってきたどこかの(それはそうでしょ)小母さんに、すみませんそのストッパーを踏んでください、とお願いしたが、さて背中側から抱きかかえたままでは椅子に乗せるのが難しい。では前方からと、前から抱きかかえて乗せようとしたが、今度は車椅子の方が不安定だ。ただ幸いなことに玄関先でまだ発車していなかったデイ・サービスの二人が気がついて駆けつけてくれ、それでようやく車椅子に乗せることができた。
 幸い事はそれだけで済んだのであるが、それからが大変。といって私の心の中での一人相撲である。美子を看護師さんと二人がかりでストレッチャーに乗せて、私は治療室の入り口のところにある長椅子に座って待てばいいのだが、先ほどのことをいろいろ思い返したのだ。もしあれがお尻から落ちずに、前屈みのまま頭から落ちたらどうだったろう? 以前まだ美子が少し動けるときだったが、一度目を離したすきに頭から落ちたことがあった。幸い絨毯の上だったので顔を少しすりむいただけで終わったが、もし先ほども頭から突っ込んでいたら、硬いタイルの土間である、擦過傷だけでは済まなかったはず…
 実は今日の午後、クリニックに出向く少し前、どんよりと曇った午後の光の中で、ひとり机の前に座って憂鬱な気分を味わっていた。なんの変化も無くこうして老いていくだけの日々がこの先ずっと続いていくのか…神戸に住む従妹、いや従姉の子のM子さんから午後届いた手紙を読んだことがきっかけだった。手紙にはこう書いてあった。
 「だらしの無いことですが、この数年間の重圧から開放され、さぁ前へと思っても、何もでてこない空っぽの状態で、これがいつまで続くのかと困惑しています。親を見送り、子としての役目を終え、普通であれば夫婦二人の原点に戻った訳で。さぁこれから誰に遠慮することなく語り合い、しみじみ思いのたけを、そんな時間を夢みた日々もあったなぁ等々…」。彼女はその夫をも失ってしまったのである。
 治療室での私の妄想は続く。Mさんに比べるなら私は何と恵まれていることか! 何も分からなくなった美子ではあるが、側にいてくれるだけでいい。介護しているのは確かに私の方だが、しかしその美子に支えられているのは実は私の方なんだ。さっきのように雑に扱ってはならない。たぶん神様(ん?どこの神様?)が、そんな気の抜けたような私にカツを入れるため、さっきのような小事故を用意なさったんだろう。そんなことを考えているうち、鼻の辺りが熱くなり、あやうく涙をこぼしそうになった。

 「ご主人、褥瘡の方、あともう一回、来週の月曜で治療は終わりですよ!」

 いつもの優しい看護師さんの声がとつぜん耳に入ってきた。いつの間にか石原医師の治療が終わっていた。つまり十分以上も椅子の上でぼんやり物思いに耽っていたらしい。ありがたい! あと一回。褥瘡はともかく、これからは注意深く丁寧に美子の介護を続けていかなければ……

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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空白の十分間 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     奥様が大事には至らなかったこと本当に良かったと思います。私も母の介護をしてますが、私や妻が見ていない隙に外出中一人で歩いて何度か転倒して救急車で搬送してもらった経験を持っています。介護は常に何が起こるかわかりませんから大変ですが、私も母が生きていてくれているだけで毎日の心の支えになっているんだと思っています。

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