幸いなる罪

ギャラリートーク四度目の発言 

徐先生の最後の締めの言葉がこの後もうひとつあると思いますけど、その前にちょっと、今のことに補足というか。つまり確かにこの原発事故は、過去の日本が東アジアの人たちに対して犯した罪も含めてなんですが、要するに人間の愚かさによって犯した罪ですよね。だけど私は、その罪を逆転させる、その意味を逆転させることができることも、人間にはできるはずだ、と。
 ここでえらい聖人の名前を出すのはおこがましいんですけれど、皆さんも御存知のアウグスティヌスっていう人が「フェリックス・クルパ」―ラテン語ですけれども、簡単に言えば「幸いなる罪」という表現をしたんですね。それは「人祖の罪」なんかのことも含めてでしょうが、私は今その神学的な解釈を考えてるんじゃなくてですね、犯した罪あるいは不幸というものの意味をプラスに転じ得るのも人間なんですよ、と言いたいわけです。
 つまり、ひらたく言えば、原発事故というものを経験したおかげで、私自身の個人的なことで言えば、いろんな人とのつながりができたんですよ。つまり、今ここで、こうやって持っている集会や、鄭さんの写真展が出来るっていうのも、正直言えば、私の方から見てゆけば、それはひとつの、「紡ぐ(つむぐ)」という行為なんですけど、その「輪」が少しずつ増えてきているんです。簡単に言いますとですね、私のことを最初に発信したのは、「東京新聞」の佐藤直子さんっていう、今はちょっと病気で休まれている方の記事、つまり私の家族の写真と一緒に出た記事なんですけれど、それを読まれた「朝日新聞」の論説委員の浜田さんっていう方が、南相馬に来てくださったんです。そして、そのことを論説委員室からの「窓」っていうコラムで、私が何気なく使った「魂の重心」という言葉を拾い上げてくださった。その「魂の重心」という言葉を、今度は、徐さんが拾ってくださったわけです。で、そういう輪がずうっと繋がっていったんです。これ自慢話しているわけじゃないですよ、今言っているのは、魂と魂の結びつきのことなんです。
 震災後にいろんな言葉が、たとえば「絆」とか言う言葉が、正直いやになるほどやたら使われ、「絆」っていう言葉を聞くだけで、もう食傷気味なんですよ、実はね。だけど、その浜田さんは、そういう人と人の繋がりを、「あぁ、先生、それは『紡ぐ(つむぐ)』ということでしょう」って言ったんですね。ちょうどひとつひとつ糸を紡いでゆくように。それが今こうして実現しているわけです。私の願いは、そういう形の広がりがさらに広がることなんです。先ほど徐さんがおっしゃったように、南相馬もひとつの発信源となって、もっと広く東アジア、韓国の人たちに向かっても語りかけていくことを望んでいます。本当にこういうことについて皆が話し合いをしたり、これからの若い人たちも含めてですね、どうしたら本当にそういう望むべき世界像に近づけるかっていうことを、これから本当に話し合うべき時期が来ているのだと思います。だから、さっき言ったあの「フェリックス・クルパ」というのを、そういうふうに解釈して希望を持ちたいと。
 で、ついでですから、多分ご本人は嫌がるかもしれませんけれど、その浜田陽太郎さんが、この集まりのために、わざわざ東京から奥様とご一緒に駆けつけて下さっています。浜田陽太郎さんをご紹介します(拍手)。ありがとうございます。
 えー、今申し上げたかったことは、初めから何か大きなうねりのようなものを考えるのは無理かもしれません。だけど、さっき徐さんがおっしゃってくださったんですけど、そのひとつひとつの繋がりの中からエネルギーを引き出して、少しずつ運動してゆくしか、たぶんないのかなぁと思います。この間も、ある歯医者さんの待合室で雑誌を見ていたら、倉本聰さん、あの「北の国から」の倉本さんが、講演に行かれて、聴衆に問いかけたらしいんです。2階席はほとんどは若い人たち。それから1階席はまぁ年配の方たち。それで、二者択一の問いかけをしたって言うんですね。つまり、「便利な生活をこのまま続けるために、例えば原発の再稼働を選ぶか、それとも、10年か15年、逆戻りするけれども、自然エネルギーのような安全なエネルギーを使って生活をするか。さぁどちらを選びますか?」と。
 皆さん、どう考えます? 下の1階席の人たち、つまり年配の人たちの90%は、15年くらい戻っても構わない、と。それは希望ですね、「あぁやっぱり年配の方々は考えて下さっている」と。ただ残念なのは、2階席の若い人たちに向かって同じ質問をしたら、70%は、「携帯とかそういうものがない生活は考えられないから、原発再稼働を選択する」っていうんですよ。「わぁー」と思いましたね。本当に悲しい。ただ、その時思ったのは、そういう子供たちを育てたのは私たちなんだ、ということです。まぁ皆さんとは違って、いや皆さんのある人たちとは同じ世代でしょうが、私は敗戦を経験しています。小学校1年生の時に終戦ですから。何もないころを知っていますよ。何もない、今晩食べるものさえないような。だけどね、もっと何かなぁ、がむしゃらに生きていたと思いますね、あの頃の日本人は。
 実はこの間、鄭さんと小高の町(原発警戒10キロ付近区域)に行ったんですよ。そしたら、多分皆さんのお知り合いもそうかも知れませんが、私の母方の親戚も皆小高区の住民です。でね、車で通りながらね、やり場のない怒りを感じ始めたんですよ。それは非常に複雑な怒りです。つまり、親戚たちに戻って来いなんて言えないですよ、だけどね電気は通っている、水なんてのはタンクローリー車で運べばいい。買い物なんてのはそれこそスーパーまで車で来れるんですよ。私の親戚の家なんてのは、まぁ立派な家ですが、森閑としているんです。町に誰もいないんですよ。私、思ったんです、その時。「あっ終戦後の日本人だったら、絶対もう住んでます」と。テレビのニュースで知っただけなんですけど、理髪店経営のどなたかが、避難所からいつも水を運びながら小高で営業している方がいるそうです。そういうひとつひとつの「点」からしか、復興なんて始まらないんですよ。皆、今、補助金待ち、支援待ちです。なんで日本人はそこまで依存体質になったんだろうか。まぁこれは本当に、身内の人を責めるわけには行かないんだけど、今感じている怒りはそういうことです。
 もちろん行政とか、原発とか、東電とかに怒りを持っていますけれども、それよりか、複雑な思いを、私は今持っています。もっとがんばろう、ともかく生き始めましょう、という。で私は、今日は来てませんけど、私がそういう考え方になったのは認知症の妻がいるからです、正直言うと怖いものなんてないんです私、はっきり言うと。私の日常生活は、本当に、言葉は悪いですけれど、あっこれ音声拾って欲しくない言葉だけれども、「糞取りの翁」ですよ、毎日がね。だけども、その中で本当に怖いものなんてないですよ。つまり、生きることに対して多分前より貪欲になったと思います。ただ、貪欲なだけじゃなくて、私はね、このまま、おめおめ死にたくないと思っています。若い子供たちに、本当に良い日本を遺して死にたいと思ってます。まぁ本当に微力で何もできないかも知れませんけれども、ただ、心からの願いはそういうことです。そして、思ったのは、東アジアの、とりあえずはすぐ近い韓国の人たちと、本当に友好の輪を、本当の和解の道を探りたいと思っています。私の話は、以上です、ごめんなさい。

朝日新聞夕刊  2011年6月2日

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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