亡国教育の見直しを!

やらなければ(書かなければ)ならないことが山積しているというのに、そういうときに限って、別のどうでもいいことに精を出す、というのがもう一種の宿痾みたいなもので、今回もその伝である。ただし大きな流れからすれば、これも全くの無駄ごとではないのだが。今日はほぼそのことだけにかまけて一日を過ごしてしまった。
 具体的に言うと、ふだん使わない二階の小さな洋間の書棚に忘れられていた「中公・日本の名著」全50冊を机側まで運び下ろし、ひねもすその背に貼るラベル作りに没頭したのだ。実はこのところ剣豪小説もその一端である日本伝統思想の勉強を思い立ち、いろいろつまみ読みをしていたのだが、例えば岩波文庫の『葉隠』を読みながら、待てよ家に別な版があったのでは、と思い出したのだ。もしかして「中公・日本の名著」を購入していたのでは、とあわてて二階に探しにいったところ、何と全巻鎮座ましましていた。読んだ形跡もないので、大震災前にアマゾンからまとめ買いをしてそのまま放置していたものらしい。
 蔵書はすべてパソコンの「貞房文庫」目録に登録はしていたのだが、全巻購入していたことなどすっかり失念していた。わずかな冊数の蔵書でさえもはや管理できていないわけだ。これからさらに記憶力減退が進むのに、と心細い限りだが、これが老いるということ、しっかり受け止めていかねばなるまい。
 具体的に、と先ほど書いたはずだが、どういう作業にかまけていたか、まだ説き及んでいない。要するに、これも「老い」と関係することだが、深緑色の背に小さく金色で印字されている書名が、光が当たらないと老眼には見えにくいので、白い紙に題字を印字した紙片を貼り付けようと思ったのだ。最初普通紙にプリントしたが、見栄えも悪いし、いつか黄ばんでまたもや見えにくくなるはず、ならば写真用印画紙にプリントして貼ってはと思い直したのである。
 つまり第一巻の『日本書記』から第五十巻の『柳田国男』まで、まず題字を12ポの文字に印字し、それを小さく切り分けて木工ボンドで背表紙に貼るというまことに細かく地味な作業を続けたのだ。しかし作業の途中、名前は知っているがどういう人か分からないのが大部分なので、そのつど解説や月報を読んだたりして、結局夕食前までかかってしまった。ともかく全巻を以下に列記しておく。

  1. 日本書記
  2. 聖徳太子
  3. 最澄/空海
  4. 源信
  5. 法然/明恵
  6. 親鸞
  7. 道元
  8. 日蓮
  9. 慈円/北畠親房
  10. 世阿弥
  11. 中江藤樹/熊沢蕃山
  12. 山鹿素行
  13. 伊藤仁斎
  14. 貝原益軒
  15. 新井白石
  16. 荻生徂徠
  17. 葉隠
  18. 富永仲基
  19. 安藤昌益
  20. 三浦梅園
  21. 本居宣長
  22. 杉田玄白/平賀源内/司馬江漢
  23. 山片蟠桃/海保青陵
  24. 平田篤胤/佐藤深淵/鈴木雅之
  25. 渡辺崋山/高野長英/工藤平助
  26. 二宮尊徳
  27. 大塩中斎/佐藤一斎
  28. 頼山陽
  29. 藤田東湖/会沢正志斎
  30. 佐久間象山
  31. 吉田松陰
  32. 勝海舟
  33. 福沢諭吉
  34. 西周/加藤弘之
  35. 陸奥宗
  36. 中江兆民
  37. 陸羯南
  38. 内村鑑三
  39. 岡倉天心/志賀重昂
  40. 徳冨蘇峰/山路愛山
  41. 内藤湖南
  42. 夏目漱石/森鴎外
  43. 清沢満之/鈴木大拙
  44. 幸徳秋水
  45. 宮崎滔天
  46. 大杉栄
  47. 西田幾太郎
  48. 吉野作造
  49. 河上肇
  50. 柳田国男   

 大学では一応哲学を学んだとはいえ、儒学(朱子学、陽明学、古学)、国学など西欧哲学流入前の日本の学問思想の流れをこれまでまったく勉強してこなかった不思議さに今さらながらあきれている。過去の遺物として一切問題にしてこなかったこと自体、実は大変おかしなことだった。いや学問・文化だけでなく、国の成り立ち、その変遷についてもほとんど無知であったわが教養のいびつさ(?)に、今ごろになって驚いている。
 それにしてもいったい学校では何を勉強してきたのだろう。国の成り立ち、先祖たちが考えたり行なったりしたことを適切な形で教えられたのだろうか。それはともかく、私自身、日本の歴史や文化についてのわずかな知識をみずから主体的に受け止め、それをものの考え方や見方に活用する道を一方的に塞いできた気がする。もっぱらスペイン思想に眼が行っていたなどと言い訳することは許されまい。ただスペイン思想を読んできたことで、ちょうど合わせ鏡を見るように、いま改めて日本の伝統文化が魅力あるものとして見えてきたことを(大幅な遅れはあるものの)諒とすることにしよう。
 それにしても、ともう一度言うが、人間らしく、そして自分の生きている風土を「大切にする」(古い日本語を収録した日葡辞書では現在の「愛する」と同義語)心を育てない国の教育システムなど、この際抜本から(政治家の良く使う言い草ではなく本当の意味で、つまりラディカルに<根っこから>)見直す必要がある。そうしないと、原発依存に見られるように、現政権の画策する似非愛国主義教育では亡国の徒を作るだけであろう。
 あゝ我にこの覚醒がいま少し早く訪れていたなら! でもボヤイていても仕方あんめえ、これから死ぬまでがんばるっきゃない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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亡国教育の見直しを! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生の言われる通りだと私も思います。江戸時代は国民の間で中国の伝統的思想である儒学が隅々にまで浸透し、明治維新には、その流れを堅守して根底に吉田松陰などに見られるように陽明学が大きな役割を思想面で担っていたと思います。革命と言わず維新というのも中国思想の表れでしょう。

     明治から大正、昭和、平成と進むにつれて、人間の徳性を養う心の学問が等閑にされてしまったことと今の日本の閉塞した実情とは深い因果関係があると思います。恐らく、明治時代までは中国の四書など、特に大学などは幼少の頃から素読することが日常化していたと思います。つまり、心の学問に親しんでいた土壌が日本中に普及していたということです。先生がモノディアロゴスの中で指摘されているように、現代人は難しい数学の公式や科学的知識など、昔の人々よりはるかに高等な能力を持ちながら、いざ、人生についてなどの命題を向けると答えられないという理由も心の学問を怠っていたからだと思います。吉田松陰など明治維新に携わった人たちは今の日本人より、はるかに大人ですし、高い見識を持っていたはずです。

     先生が言われるように「人間らしく、そして自分の生きている風土を愛する心を育てない国の教育システムを見直す」ことが、原発問題の明確な答えだと私は信じています。

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