日本スペイン交流400周年の真義

今まで小説や映画で読んだことも見たこともなかったあの有名な決闘にとうとう立ち会った。時は慶長17(1612)年4月13日、船島(通称巌流島、山口県下関市の沖合い)での武蔵と小次郎の決闘である。確かむかし見た映画のポスターでは武蔵は櫂のような物を持っていたと記憶していたが、村上元三の小説ではこうなっている。「右手にさげた獲物は、小太刀ではない。おそらく、船の櫂を削ったものであろう。木は新しいが幅が太く、不恰好であった。長さは、四尺一、二寸と思われる」。
 それに対し、小次郎は四尺の小太刀。この一~二寸の差が、そして前日周到に決闘場所を下見していた武蔵の戦略が勝敗を決した。つまりわざと四時間も遅刻して来た武蔵が、小舟から上がって海を背にしたため、それに向かう小次郎の目は次第に疲れを覚え、そしてついに両者が切り結んだとき、小次郎の切っ先は武蔵の額の鉢巻を切り落としたのだが、一~二寸長めの武蔵の切っ先は、「小次郎の額の生え際から二寸ほど上のところへ、大地へ打ち込むくらいのすさまじい打撃を加えた」のである。
 ともかく一瞬の勝負だった。離れたところで立ち会っていた伊之瀬東馬(小次郎の妻となった兎禰(とね)の元いいなずけ)が駆け寄って、まさに絶命せんとする小次郎の右手から固く握り締められていた小太刀を離そうとするが、その左手には小さな黄色い浜ぐるまの花が握られていた。兎禰への最後の伝言ででもあったのだろうか。
 これより少し前、豊後(大分県)の古国府(ふるごう)で小次郎と再会した兎禰は、付き添い役に徹した東馬と共にキリシタンの洗礼を受けて、ようやく魂の平安を覚えるまでになっていた。しかし小次郎は、彼女とついに夫婦になったとはいえ、なおも見果てぬ夢を追い求めつつ、ここに二十台半ばの若い命を落としたのである。一方、武蔵は更に30年以上も生きながらえ、剣法者として『五輪書』(オリンピック案内書ではござらぬ)を表すなど円熟の晩年を迎える。武蔵と小次郎、たぶん世人の圧倒的な支持を得るのは武蔵であろうが、葛藤と焦慮の中で果てた小次郎に、いまは不思議な愛着を覚えている。これから読むであろう吉川英治の『宮本武蔵』の後にも、なおその愛着は持続するかどうか。
 大団円にしてはいささかあっけないこの幕切れ近くに、こんな一節もあって、一気に現代へと繋がった。「また九州平戸には二年前からオランダ商館が設けられているし、この年の六月には、スペイン領メキシコ総督からの使節としてバスチャン・ヴィスカイノが日本に到着し、いまは江戸の将軍秀忠のところに滞在している。」そうだ、そのあと、遠く奥州相馬の里をビスカイーノ一行が通過するのだ。バスチャンは正しくはセバスティアン、ヴィスカイノはビスカイーノ、つまりこの三月、相馬市市史委員会から頼まれてその相馬での件(くだり)を訳したあのヌエバ・エスパーニャの特使ビスカイーノである。以前書いたように、彼の一行が相馬を通ったのは、慶長大地震(1596~1615年)とりわけ会津地震(1611年9月)、三陸沖地震(同年12月)の直後のことであった。
 さらに東馬と兎禰が洗礼を受けたのは、耶蘇(イエズス)会のイスパニア人ロドリゲス神父からで、このころから厳しくなったキリシタン弾圧を逃れて、イルマン(エルマノ=修道士)トマスとなった東馬は、ロドリゲス神父と共にイスパニアに逃れるであろう。そして小次郎とはついに結ばれることが無かったナビィは長年彼女を愛していた南屋十兵衛とともに琉球に戻って危殆に瀕した祖国琉球のために再度奮闘することになろう。
 では愛しい兎禰は? 心配ご無用。彼女は島兵衛・小里という忍者夫婦に付き添われて先ずは小次郎の父だと名乗り出た江州(ごうしゅう=近江=滋賀県)観音寺の佐々木義弼(よしのり)のところに立ち寄り、生前会うことの無かった亡き息子の形見を届け、そのあと越前の彼女の父の元に帰るであろう。
 これにて佐々木小次郎一巻の終はりといふわけだが(おっとつい旧かなになってしもた)、前述したようにちょうど四百年前の日本が私の頭の中で急接近したように思えたのだ。小次郎の短い生涯をたどるだけでも、彼の生きた時代、彼の歩いた日本は決して私たちと無縁の世界ではなく、さまざまな局面で深く現代にまで繋がった世界であり、小次郎を初め当時の日本人たちの喜びや悲しみも現代のわれわれと強く共鳴するという嬉しい発見であり新鮮な驚きである。
 と、ここまで書き進んだとき、震災後知り合ったH新聞社のI記者から、慶長遣欧使節支倉常長について寄稿してもらえないだろうか、とのメールが入った。いや不思議な暗合はそれだけではない、昨夜はイエズス会総会長ニコラス神父さんから、「貴兄のなさっておられることに私も全く同感であり、貴兄の友人であることを誇りに思います。御著が広く読まれ、多くの実を結ぶことを願ってます」との嬉しいメールが、そして今朝は、サトリ出版のアルフォンソさんから、先日マドリードの書店で行なわれた出版記念会に参加したマドリード大学のロダウ教授と 自治大学のホセ・パソ教授が、日本とスペインの関係についての佐々木の見解に共鳴しているとの力強いご報告があったのである。
 つまり多くのメリットをもたらしたがまたそれに負けず劣らず多くのデメリットをもたらし続けている「近代的価値観」に対して、スペインと日本は全く対蹠的な姿勢をとってきたこと、すなわち近代のいわば廃嫡された長子スペインと、近代の最優秀な養子日本との面白いまでのコントラストについての拙論である。いま各所でさまざまな形で祝われている両国の交流四百周年記念行事も(先日のシシリア展もその一つ)、この視点を根底に据えなければ、もっとはっきり言わせてもらえば、今回の両国首相の話し合いのようにただひたすら経済問題に終始するだけなら、単なるお祭り騒ぎに終わるということである。いや今までそこまではっきり言わなかったが、これからはぜひそのことを強調させていただくつもりだ。
 要するにこのところ小次郎、武蔵、さらに『葉隠』、利休、そして昨日は二階の書棚から埃まみれの三枝博音『日本の思想文化』や岡倉天心『茶の本』、鈴木大拙『日本的霊性』などの合本を運んできて机脇に置いているのもそのための下準備なのだ。
 なぜか? こんな歳になって、しかし今次の原発事故を経たからこそ、日本文化の本質を見直そうとの意欲が俄然湧いてきたのだ。つまりはっきり言えば日本は反近代の姿勢を貫いてきたスペイン(EUの中のせめぎ合いで時おりそれも怪しくなるが)から多くのことを学び、スペインは原発に代表される近代への盲信で己が真の姿を見失う以前の「日本的なるもの」から(時にそれは見る影もないほどの変質を蒙ってはいるが)なお多くのことを学ぶためである。
 はっきり言おう。原発、経済優先、ふつうの国を目指すと言いながら内心は排他的・自己中心主義的な大国日本を画策するすべての勢力に言いたい、あなたたちは本当に価値ある日本を駄目にし、裏切ってきた。原発は真に日本的なるものとは決して相容れない邪道である、と。これまでは反自然、反人間という視点から原発反対を主張してきたが、これからはそれに加えて、堂々と反日本、反愛国であるからとの主張を前面に出そうと思う。
 つまり自然との共生、節度と礼節を重んじる優れた日本の伝統文化に共鳴する世界のすべての人たちとの幅広い連帯を構築していきたいのだ。そういう意味で言うなら、サムライ・ジャパンもなでしこジャパンも応援しまっせ。
 ということはおぬし、新・保守主義を掲げるつもりか? とんでもごぜえやせん、あっしにゃー保守も革新も無く、ただ只管(ひたすら)根っこから(ラディカル)、つまり過激ではなく根源から奈落からの主張という意味での根源主義に徹してるだけでごぜえやす。なんだか鶴田浩二の歌みたくなってきちゃった。ええいっ面倒くさい、「傷だらけの人生」でも一緒に歌いましょか?

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ
新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、
右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある 

(以下省略)
              (作詞:藤田まさと 作曲:吉田正)


【息子追記】立野正裕先生からFacebookでいただいたご意見を以下転載する(2021年2月18日)。

興味深く一読させていただきました。とくに前半、武蔵と小次郎の決闘のくだりを。先生は村上元三にもとづいておられますが、わたしの場合は吉川英治です。高校時代に内田吐夢の武蔵と付き合い大学まで見続けたいきがかりで、ずっと後年、武蔵論を書くときも吉川英治と内田吐夢の濃い影を背に負っていました。ただし、わたしの場合は、小次郎との決闘にまでたどり着かず、一乗寺下リ松の吉岡一門との肉弾相打つ血みどろの斬り合いと、このとき殺した子供のことがながいあいだ気になっていました。佐々木先生が吉川英治をお読みになっておられたなら、問題のその子供殺しについてどのようにお考えになったか、ぜひご見解をうかがいたかったところです。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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日本スペイン交流400周年の真義 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     人間にとって(人生にとって)本当に価値あるものは何か、何なのかと考えると、それは普遍的なことなんだと私は思います。先生の言われる「自然との共生、節度と礼節を重んじる優れた日本の伝統文化」は、いつの時代でも、世界の人たちに共鳴、共感してもらえる普遍性を有するものだと思います。日本が迷走している一つの理由は、非常に短期間で結果を出すために、一時的な利益や快楽、刺激的な欲求ばかりを追求してしまっている所に原因があるように私は感じます。しかし、それは時間の経過と共に全てが空しいものだと私は思います。先生が言われるように原発問題は人間の生き方が絡んだ問題です。自分にとって、普遍的価値とは何かと深く熟考すれば答えは誰もがわかるはずです。それは先生の言われるように「うっとうしいもの」でしょう。しかし、その「うっとうしいもの」と地道に、真摯に向き合わなければ普遍的価値あるものを手に入れられないのも事実だと私は思います。そして、原発問題は外的な利便や快適さの有無にあるのではなく、私たちの心の中で普遍的価値とは何かを見極めれば答えは自ずと出て来るものだと私は思います。先生が『すべてを生の相の下に オルテガ論集成』の中でこう言われています。

     「己れの生命を犠牲にしてまで守るべき主義主張あるいは信念があってもいい。しかしそのために他人の生命を犠牲にしてまで守るべき主義主張や信念などあっていいはずがない。これが現代と同じく狂信と戦乱の世であった十六世紀ヨーロッパを考え続けてきた私自身のたどりついた一つの信念である」

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