この十日ばかりのこと

仮設住宅にフラメンコ舞踊団とパエーリャ

 お百姓さんの生活サイクルで言えば、今は刈り入れ、脱穀、袋詰め(?)、そして出荷の時期で、これはこれで大事な仕事なのだが、書かないとやはり精神状態がよろしくないようだ。今日まで連日、第十巻の印刷・製本に没頭してきたが(すでに百十冊を越えた)、書かないと何か落ち着かない。これって中毒? まさかと思うけれど、少し気分を一新するためにも今日はこの十日ばかりのことを日録風に書いてみよう。
 先ず11日の日曜、鹿島・寺内の仮設住宅に、スペイン料理店を営む滝本さんという青年が、東京からフラメンコの踊り手たちと一緒に慰問に来た。滝本さんとはもちろん初対面。どういう経路からかは聞かずじまいだったが、突然メールが来て、震災後毎年被災地を慰問しているが、今回は寺内の仮設を訪れ、仲間の踊りを見せながら皆さんにパエーリャを召し上がってもらいたい、ついてはあなたもいらっしゃいませんか、というお誘いである。それではお言葉に甘えて息子の嫁と孫娘を連れて行きます、と返事しておいた。
 当日、約束の十一時半ごろ仮設住宅群に行ってみると、よっちゃんのいる老人ホームの少し手前の広場に、フラメンコ衣装の踊り手たちの姿が見え、その前に何列かベンチが用意され、仮設のお爺ちゃんやお婆ちゃんたちが、たぶん初めて見るフラメンコの踊りを楽しんでいる。滝本氏に挨拶したあと、われわれも空いたベンチに腰を下ろし、プラスチックの容器に盛られたパエーリャを食べながらしばし踊りの見物。滝本氏の説明によると、フラメンコ教室の仲間たちだそうだが、彼女たちのある者はまさに本場のジプシーそのものの雰囲気があり、踊りもなかなか切れが良い。青空の下もいいが、タブラオで踊ったらさぞかしと思わせる。
 いや何よりも良かったのは、お顔はマイクに隠れてよくは見えなかったが、椅子に座って歌うカンタオーラ(フラメンコの歌い手)のおばさん(失礼!)である。本場仕込み(と思われる)の迫力ある渋い声。アルバイシンのジプシー集団の世界が彼女の歌声に乗って仮設住宅のど真ん中に突如出現する。
 来年もまた来るので、そのときもどうぞ、との誘いの声に送られて退席。せっかくだからよっちゃんのところに寄ってみることにした。ちょうど昼ごはんの最中。とつぜんの訪問、それも大好きな愛を連れて行ったので、よっちゃん大喜び。われわれもささやかな慰問団になったわけだ。


左膳の碑

 それから数日後、いつも車のことで世話になっている中学時代の同級生E君のところに冬タイヤを夏タイヤ(って言うんですか?)に取り替えてもらいに行ったとき(2年前までは自分でやっていたのだが、今はちときつすぎる)、献呈した第十巻のタイトルを見てE君がいいことを教えてくれた、相馬の岩子海岸に丹下左膳の大きな石碑が建っていると。いやー知らなかったなー。帰宅してからさっそくネットで調べてみたら、ありましたありました写真入りの「福島民友」新聞の記事が。

相馬藩ゆかり、地域おこし

 1989年9月15日に除幕式が行われた「丹下左膳之碑」。飯舘村産の自然石で造られている独眼隻腕(せきわん)のニヒルな剣士として知られる痛快時代劇のヒーロー、丹下左膳は相馬が発祥の地だったことをご存じだろうか。
 今から約20年前の1989(平成元)年、相馬市の有志でつくる「丹下左膳の会」がこのヒーローによる地域おこしを計画。同市岩子に「丹下左膳之碑」を建立し、当時新聞やテレビなどマスコミで大変な話題となった。
 同会のメンバーだった佐久間清登さんが当時の活動をまとめた「覚え書き丹下左膳の碑」などによると、丹下左膳は林不忘(はやし・ふぼう)作の長編小説の主人公。「乾雲坤竜の巻」で「刀剣蒐集(しゅうしゅう)狂の主君、相馬六万石、相馬大膳亮の命を受け、江戸、あけぼのの里にある小野塚鉄斉の道場に試合を挑み、血に飢えた殺人剣を振るう―」とされ、まさに相馬藩にかかわりのある男だったとされる。
 作者の林不忘は昭和初期に同市を取材で訪れたとされ、小説の中で丹下左膳が「中村城の不浄門から出て城下を出外れた」とある不浄門は、かつて中村城の城門だった長命寺の山門がモデルになっているという。
 丹下左膳之碑の除幕式は89年9月15日に行われた。同会メンバーが扮(ふん)した丹下左膳が登場、小説に出てくる「こけ猿のつぼ」をあしらったクイズなども盛り上がった。
 あれから約20年がたった今でも佐久間さんは「石碑を通して、あらためて市民に丹下左膳と相馬とのつながりを知ってもらえれば」と話している。」

あと二つほど書くことがあったが、それはまた次の機会に。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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