汚れちまった悲しみに…

注意深い方は既にお気づきと思うが、数日前から上の欄に「相馬の自然と民謡」というコーナーが新設され(例のごとく■に依頼して)、そこに「フクシマの唄」が収録されている。この映像と歌に出会ったのはまったくの偶然であった。毎日のように美子に「ふるさとの民謡・福島編」というCDを聞かせているが、あるとき「相馬二遍返し」のその「二遍」が何の二遍なのか調べようと検索したときにこのすばらしい映像と音に出会ったのだ。写真家土田ヒロミさんの写真と中村力哉さんがアレンジした「相馬二遍返し」を初めて見、そして聴いたとき、不覚にも涙が止まらなかった。相馬の自然の美しさ、そしてそれを汚してしまった人間たちの身勝手さを今さらのように深く恥じ入ったからだ。
 土田ヒロミさん、初めは女の方かなと思って調べたら、何と私と同じ歳の男性だった。ともかくすばらしい映像で、チョン・ジュハさんの写真とはまた違った感銘を受けた。ともかく実物を見て欲しい。御存知と思うがフルスクリーンにして見てください。後半部にパトカーや防護服姿の男の姿が写っているので明らかに原発事故後の風景と分かるが、しかしそれが無かったら、美しい自然が、その豊かな姿が現前するだけ…
 いや違う。正確に言うと、ジャズ風にアレンジされた「相馬二遍返し」がまるでレクイエムのような悲しい旋律に聞こえてきて、その美しい自然が目には見えないが深い痛手を負っていることが暗示されて…いや美しいがゆえにかえってその傷が明示されているようにも見えてくるのだ。
 どんな西洋音楽にも無いような深い悲しみがひしひしと伝わってくるのはどうしてなのか。たぶんそれは、その土地土地に伝わる旋律が、魂の奥底から発せられるものであればあるほど、陽が一瞬のうちに陰に転じるからかも知れない。佐々木幹郎の『東北を聴く』(岩波新書、2014年)によれば、陽旋律の「相馬盆唄」がもの悲しげな節回しで子守唄代わりに歌われることによってあの哀愁に満ちた陰旋律の「新相馬節」が誕生したように。
 そして「フクシマの唄」を見そして聴きながら、唐突に思い出した詩がある。中原中也の「汚れちまった悲しみに…」である。

汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

………(以下省略)

 でもこの悲しみ、喪失感に負けてなぞいられない。
 本当は「美味しんぼ」騒動についても書くつもりだったが、やめた。正直なところ、残るのはただただ腹立たしさのみ。簡単に言えば、いろんなことを考え、苦しみ、そして覚悟してこの地に生きることを決断し、そして実際に生き、生活している人の前で、ここは住むべきところではない、いやそうとは言えない、など無遠慮に議論するそのデリカシーのなさに、もういい加減にしてくれと言いたいだけ。
 もちろん意見を言いたい人の口を封じる気もない、ただできれば子供の目に入るマンガとか…いやいやこちらとしては見る気も無いので、どうぞご勝手に、だな。
 それでは今も避難生活をしている人に対しては? いやそれは一概に言えない。だって強制的に避難している人もいれば、自主的に避難生活を続けている人もいるわけだから。じゃ自主避難をしている人に対しては何と言う? 私としては、安全だから戻ってきなさい、なんて死んでも(?)、いや口が裂けても言うつもりはない。でも本音は? そうさな、北村清吉が言ったようなことをつぶやくかも。つまり「北の国から」のあの清吉のつぶやきを。
 かつて冷害に襲われて、多くの入植者が麓郷(ろくごう)を去っていった時、北村清吉(大滝秀治)は「お前らいいか、負けて逃げるんだぞ」、「お前らはわしらを裏切って逃げ出していくんじゃ、そのことだけはよおく覚えておけ」と言ったという。
 いや口には出さない、心の中でつぶやいただけだ。でもその清吉は戻ってきた五郎とその子供たちを心から迎え受け入れた。残って頑張っている私たちも、いつか心の整理がついて戻ってくる人を心から喜んで迎えるだろう。そしてフクシマだけでなく、日本の、いや世界の原発が無くなるための闘いを一緒に闘いたいと願っている。もうどこかで書いたことだが、ギャザ地区のイスラエル人入植者のえげつない戦法を、反原発のための闘いになら堂々と逆用したいわけだ。つまり健康被害のない、少なくとも現代医学でそう判定された土地に住みつくことによって、徐々にその生活空間を広げていく、すなわち点を線に、そしていつかは面に広げていく戦法である。事故後に策定された20キロ、30キロという同心円の面を、今度は逆に点で攻め、時には効果的な除染を繰り返しながら(もちろんそれは全面的に国の責任と義務の作業だ)取り返していくという戦法である。
 そんな意味でも、「フクシマの唄」をどうぞゆっくり見そして聴いてください。人間たちだけでなくこの相馬の美しい自然が温かく迎えてくれる。裏切られてもなお健気に美しく、しかも人間たちの不実を許し癒しながら年毎の営為を繰り返してくれる。

※その後調べるのを忘れていましたが、今朝(二日)大阪の高部遵子さんから、「第四句の五文字を二度繰り返すところから二遍返しの名がある」と教えてもらいました。つまり「流れ山」、「実は伊達に」、「花が咲く」などが繰り返されるから、とのこと。ご教示感謝します。
 さらに中村力哉さんのブログに次のような解説がありました。無断拝借ですみません。

「相馬藩は天明の大飢饉(1782〜1788年)では人口の三分の二を失い、復興には人口の回復が必要であったため、藩主は越後、越中、加賀(今の新潟・北陸地方)に家臣をつかわして、相馬へ移民を募りました。
その数は五千人を超えたと言われているそうです。
この唄はその時、相馬を誉めたたえる宣伝歌として唄われたとも伝えられています。」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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汚れちまった悲しみに… への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     「フクシマの唄」を繰り返し視聴しながら、先生が「くに」について何度も言われていたステイトでもなくネーションでもない先祖の顔が見え、親しい人たちの笑い声が聞こえるカントリーという「くに」のあり方がここにはあると私は思いました。春には桜、夏には向日葵、秋の紅葉、そして雪景色に変わっていく冬の風景という四季それぞれの趣きが、先祖の人たちの思いを代弁しているのかも知れません。そして、自然という万物のあるべき姿は私たち人間の欲望を満足させるという迷いの世界から人間の心を開放させる天の配剤のよう私は感じます。

  2. 立野正裕 のコメント:

    昨晩(2016.09.01)、ちょっと必要があって中原中也のことを調べていたところ、モノディアロゴスで「汚れちまった悲しみに」が取り上げられていることを知り、さっそく二年前の6月にさかのぼってthe fugitiveのブログを訪ねました。
    おかげで思いがけず「フクシマの唄」の音楽と歌と映像(写真)に接し、相馬の風土や自然を垣間見る機会が得られました。中村力哉氏の音楽にも、土田ヒロミ氏の写真にも、風土の魂を掘り下げる静かな熱情が湛えられていて、深い感銘を受けずにはいられません。
    しかしそれと同時に、その風土がいまや変貌を余儀なくされていることも、佐々木先生がお書きのとおりです。

    「どんな西洋音楽にも無いような深い悲しみがひしひしと伝わってくるのはどうしてなのか。たぶんそれは、その土地土地に伝わる旋律が、魂の奥底から発せられるものであればあるほど、陽が一瞬のうちに陰に転じるからかも知れない」とも佐々木先生はお書きです。
    そこを読みながら、わたしはかつて『遠野物語』の序文に柳田国男が旅人の旅愁とともに記したこういう一節を想起しないわけにはいきませんでした。
    「附馬牛(つくもうし)の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片仮名のヘの字に似たり。此谷は稲熟すること更に遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思ひしが溝の草に隠れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。茲にのみは軽く塵たち紅き物聊かひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊と云ふは鹿の舞なり。鹿の角を附けたる面を被り童子五六人剣を抜きて之と共に舞ふなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞き難し。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひ児は走れども猶旅愁を奈何ともする能はざりき。」

    つねづね佐々木先生が言っておられる「くに」を表わす三つの言葉、ステイト、ネーション、カントリーのちがいについて、阿部修義さんがコメントで的確に触れておられるのにもわたしは同感を禁じ得ません。
    「くに」を表わす三つの概念を、かりそめに柳田国男に当てはめるならば、柳田はステイトの人、ネーションの人でありましたが、同時にカントリーの人でもありました。前二者の仕事についてはこんにち厳しい批判もありますが、柳田民俗学の根底をなしているのは、やはりなんといってもカントリーへの深い愛でありましょう。
    「春には桜、夏には向日葵、秋の紅葉、そして雪景色に変わっていく冬の風景という四季それぞれの趣きが、先祖の人たちの思いを代弁しているのかも知れません。そして、自然という万物のあるべき姿は私たち人間の欲望を満足させるという迷いの世界から人間の心を開放させる天の配剤のように私は感じます。」
    この阿部さんの言葉にも、遠野の人間としてわたしは心から共感を覚えます。
    この8月初めに帰省したとき、友人から、ようやく遠野郷の一部の高原牧場で牛馬の放牧が行われるようになったと聞き、同行の学生数人と荒川高原というところに出向いてみました。絶景とも称したい見晴らしのいい放牧地には、牛の群れ、馬の群れが点在し、五年前と同じ郷里の風物詩の一端がありました。しかも、遠くの谷あいの斜面の笹薮には、たまたま一頭の子熊の真っ黒い姿も見受けられ、東京からやってきた学生たちを狂喜させました。ちょっとしたサファリの気分を若者たちは味わったようですが、目を転じて平野部の牧草地を見ると、依然として静寂が立ち込めているのも事実です。
    遠野の峠を越えて釜石方面の親類縁者たちもわたしは訪ねましたが、それぞれの「汚れちまった悲しみ」を噛みしめながら人々は生きております。「でもこの悲しみ、喪失感に負けてなぞいられない」と自らに言い聞かせるようにして、人々は生きております。

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