一日中ほとんど身動きもしないし、ましてや一切の意思表示も出来なくなった美子だが、彼女なりの感覚を働かせて何らかの認識を得ているとしか思えない時がある。
ここ数ヶ月、我が家の激変もとうとうあと一月ちょっとで一応の決着点を迎える。つまり老夫婦だけの新たな出発となる。そんなこと、美子には分からないはずだが、でも果たしてそう言い切れるだろうか。というのは、今朝いつもの通りとろけるスライスチーズを乗せた食パン半切れちょっとと野菜ジュース、そしてリンゴ半切れの朝食をしてる時、とつぜん顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうな顔をしたからだ。いや実際に目じりにうっすら涙が滲んでいた。
テレビに興味を示さなくなって久しいが、その代わり、常にCDで音楽を聞かせている。現在は一巡して菅さん川口さんの「デュオ・スフィア」の「歌への旅だちⅡ」か、すこし景気をつけたい時はトリオ・ロス・パンチョスの曲を流している。しかし最近、これまで以上に努めていることがある。それは頻繁に声をかけてやること。空隙が出来た彼女の頭蓋のどこかにこびりついた言葉が、いつかとつぜん意味のある言葉として彼女に語りかけてくれるかも知れないからである。
中でもとっておきの言葉が二つある。「ダイジョーブ」と「ヨカッタネ」である。それを聞くと、わずかに彼女の顔がほころぶ(ような)気がする。さきほど泣きそうな顔になったときも、さっそくこの呪文をかけてみた。「ダイジョーブ、ダイジョーブ、パパがいるよ、ヨカッタネー」
12月6日、そのデュオ・スフィアがフルートを交えて中央図書館でコンサートをしてくださる。ちょうど老夫婦だけになって心細くなってる頃だから、演奏会が終ったその夜はぜひ我が陋屋にお泊り願いたいと菅さんたちにお願いしてるところである。そうか、人間たちの愚かな所業にもめげず(?)、季節は静かに廻って、もう少しで年の暮れか。とは少し早すぎますが、しかし陸奥の秋は釣瓶落としで、ついそんな気にさせられます。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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