「ヨカッタネ」は魔法の言葉

一日中ほとんど身動きもしないし、ましてや一切の意思表示も出来なくなった美子だが、彼女なりの感覚を働かせて何らかの認識を得ているとしか思えない時がある。
 ここ数ヶ月、我が家の激変もとうとうあと一月ちょっとで一応の決着点を迎える。つまり老夫婦だけの新たな出発となる。そんなこと、美子には分からないはずだが、でも果たしてそう言い切れるだろうか。というのは、今朝いつもの通りとろけるスライスチーズを乗せた食パン半切れちょっとと野菜ジュース、そしてリンゴ半切れの朝食をしてる時、とつぜん顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうな顔をしたからだ。いや実際に目じりにうっすら涙が滲んでいた。
 テレビに興味を示さなくなって久しいが、その代わり、常にCDで音楽を聞かせている。現在は一巡して菅さん川口さんの「デュオ・スフィア」の「歌への旅だちⅡ」か、すこし景気をつけたい時はトリオ・ロス・パンチョスの曲を流している。しかし最近、これまで以上に努めていることがある。それは頻繁に声をかけてやること。空隙が出来た彼女の頭蓋のどこかにこびりついた言葉が、いつかとつぜん意味のある言葉として彼女に語りかけてくれるかも知れないからである。
 中でもとっておきの言葉が二つある。「ダイジョーブ」と「ヨカッタネ」である。それを聞くと、わずかに彼女の顔がほころぶ(ような)気がする。さきほど泣きそうな顔になったときも、さっそくこの呪文をかけてみた。「ダイジョーブ、ダイジョーブ、パパがいるよ、ヨカッタネー」
 12月6日、そのデュオ・スフィアがフルートを交えて中央図書館でコンサートをしてくださる。ちょうど老夫婦だけになって心細くなってる頃だから、演奏会が終ったその夜はぜひ我が陋屋にお泊り願いたいと菅さんたちにお願いしてるところである。そうか、人間たちの愚かな所業にもめげず(?)、季節は静かに廻って、もう少しで年の暮れか。とは少し早すぎますが、しかし陸奥の秋は釣瓶落としで、ついそんな気にさせられます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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