ばっぱさん繋がり

銅板画家の岩谷徹氏から『子どもを抱く坂上田村麻呂』(歴史春秋社、2014年)という美しい本をいただいた。著者は一色悦子という児童文学作家だが、岩谷氏はその表紙絵そして全編にわたる挿絵を描いている。日本史に関する自分の無知をさらけ出すことになるが、征夷大将軍が郡山市田村の出であることを今回初めて知った。物語では朝廷に逆らって乱を起こした奈良麻呂を追うことを命じられた苅田麻呂が、鎮定の途次立ち寄った田村で普門王の娘あこだ姫に産ませた子という設定になっている。
 その田村麻呂に関する巻末の解説(七海晧奘)は以下の通り。

「近年、特に坂上田村麻呂公が脚光を浴びましたことは、二〇一一年三月に起きた【東日本大震災】の年が奇しくも公の【千二百年大遠忌年】に当たり、公が八〇五年(延暦二十四)建立寄進された【京都清水寺】より、同年九月二日、公の生誕の地とされる現・福島県郡山市田村町徳定に『伝・征夷大将軍坂上田村麻呂公生誕之地』碑(森清範管主揮毫による、生誕・新出発の意が込められた)が建立(裏面には、公の千二百年大遠忌と共に同年大震災で亡くなられた方々の諸霊供養の意を謹刻)、清水寺挙げての開眼供養(※【田村歴史観光協議会】主催)が執り行われたことによります」

 碑文の最初の文字「伝」は、他にも生誕の地の伝承があるから(一つは奈良県高取町、もう一つは仙台市泉区の洞雲寺)だが、史実としても田村がいちばん確実性が高いようだ。それはともかく、征夷大将軍が、えみし(蝦夷)の総帥アテルイなどと同じ血を引いていたことは確実らしい。となると、田村麻呂の時代から、東北が中央政権から絶えざる収奪の対象(当時は金)であるだけでなく、その収奪・征伐の手先と言えば聞こえは悪いが、ともかく中央政権の御意に逆らわずに奉仕(?)してきた東北の複雑な位相が浮かび上がってくる。もちろんアテルイなど頑強に中央政権に逆らった英雄もいるにはいたが、投降して(彼自身は和議に臨むつもりだった)以後、表立って朝廷に逆らう蝦夷はいなくなった。
 田村麻呂はアテルイの処刑に反対はしたが聞き入れられず、都が蝦夷の穢れた血で汚されることを忌避した朝廷会議の決定で、アテルイは河内国杜山で処刑された。以後、武力による略奪はなくなったが、あらゆる手段を講じての収奪の対象であることは現代まで変わらない。
 会津戦争の場合もそうだが、東北に対する不当な扱い、差別の歴史は忘れ去られてはなるまい。もちろんいたずらに中央政府に逆らえと言っているわけではない。しかし東北の人たちは、もう少し自分たちの歴史を自覚しなければなるまい。その意味で、原発事故が坂上田村麻呂の1200年大遠忌(だいおんき=浄土真宗で50年毎の年忌)に起こったことは意味深い。つまりそうした中央と地方のいびつで不当な関係が継続していることへの警鐘としてである。
 と、ここまで思わず不確かな古代史へと話が進んでしまったが、実は本当に書きたかったことはこれからである。簡単に言えば、ばっぱさん繋がりで大震災以後生まれつつある友人の輪のことである。すなわち冒頭にご紹介した岩谷徹氏へと繋がったのは、ばっぱさんが長年フアンだった画家の齋藤輝昭・田代絢子御夫妻からの紹介だった。つまり齋藤氏へばっぱさんの死を伝えながら『モノディアロゴス 左膳、参上!』を献呈したところ、友人の岩谷氏にも一冊送るようにと二冊分の代金を送ってくださったのがお付き合いの始まりなのだ。
 その齋藤氏はネットで検索すればすぐ分かることだが、念のため以下簡単にご紹介する。

 齋藤輝昭
  1942 福島県相馬市生れ。
  1969 武蔵野美術大学卒業。
  1970 武蔵野美術大学専攻科修了。修了制作、大学買上げ。パリ賞を受ける。
     渡仏(以後15年滞在)。
  1973 ナショナル・ボザール準会員。
  1985 パリ国立美術館に版画(5点)、収蔵される。帰国。

 以後、埼玉県入間市で夫人の銅版画家・田代絢子さんと制作活動をしながら各地で個展やグループ展をなさっている。
 実は私自身は案内のはがきに印刷されたものとネットで公開されている数点の作品しか見たことが無い。いつか実物をじかに見たいと願っている。
 さてその友人の岩谷氏だが、氏のホームページでメゾチントという技法での銅版画制作の過程まで映像で紹介されているから是非アクセスしてください。氏の場合も念のため氏ご自身の自己紹介文をコピーする。

 私は銅版画技法の一つであるメゾチント(mezzotintt)を1972年以来専門にやっております。
 その間28年をパリで制作しました。年間4、5作といったペースです。忍耐と時間のかかる仕事です。現代のように変化とテムポ の激しい時代にこの技法一筋にやっていくのは大変難しいです。私はパリの屋根裏で28年一度も引っ越す事無く続けたからこそ150点のメゾチント作品ができたとおもいます。私の作品は中、小作品が多く、カラー作品は主版ばかりでなく他のすべての色版もメゾチント技法です。これは大変難しく時間がかかりこれをする作家は非常にすくないです。
 又私の最大の特色は35年間で大作20点を含む30数点の能面シリーズを完成させたことです。これは世界で私を除いていないとおもいます。
 私はわたしの作品をむしろサロンか書斎か寝室に掛けて疲れたときに観てそして対話して頂くのが最大の願いです。
 これから追々新作や私の時々の考えや個展の模様など追加しますのでご覧頂きたいと存じます。
                        2006年6月25日

  銅版の全面に細かく交差する線をあらかじめ刻み込み、その線をつぶしたり、削ったりして明暗をつける銅版画の技法。筋彫り銅版(デジタル大辞典より)

 知り合ったばかりのご両人を友人呼ばわりしてご迷惑かも知れないが、これまで画家の友人を持ったことが無いので、年齢的にもほぼ同年配の両氏にこれからもいろいろと教えてもらえることを楽しみにしている。皆さんもぜひ彼らに注目して下さい。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください