「どうした、また浮かない顔して?」
「いやね、私たち夫婦は変わりなく何とか元気にしてるんだが…」
「私たち夫婦って貞房さんたちのこと?」
「もちろんそうなんだが、このごろ立て続けに身の回りで不如意なことがあって、それで気が滅入っている。マドリードのAさんもいろいろ家庭問題で苦労してるらしく、昨夜彼女へのメールに、【でも負けないで闘いましょう】、と書いたところ」
「それスペイン語で何て言うの?」
「実は【負けないで】を何と表現していいか分からなくて、そのとき思い出したのは、アメリカ映画の題名…」
「あっ分かったセシル・B・デミル監督ゲーリー・クーパー主演の『征服されざる人々』(“Unconquered”, 1947)だろ?」
「残念、違うよ。南アフリカ共和国のネルソン・マンデラをモーガン・フリーマンが演じたクリント・イーストウッド監督の…」
「あそっか『負けざる者たち』“Invictus”, 2009!」
「良く知ってるね、君実際に観たことあんの?」
「いや、両方とも観てない」
「君のネット仕込みの雑学はともかく、その invictus を借りて、Vamos a luchar invictos. とやったのさ」
「それで通じる?」
「分からない、でも文脈から察してくれるだろう」
「そんな時だったから、なおさら昨日の思わぬ訪問客に慰められたろう?」
「そ、持つべきものは良き友だね。Oさん御夫妻が息子さんのT君運転の車でわざわざ遠いT市から訪ねてきてくれたんだ。午後2時から5時まで3時間たっぷり旧交を温めることができた。夕陽を追いかけるようにその日の泊りの福島目指して帰っていったけど、こんどはいつ会えるか、死ぬまでもう一度会いたいと痛切に思いながら路地を曲がり切るまで見送ったよ」
「そうだよね、この歳になると次いつ会えるか…最近はもっぱら奥さんとメールのやりとりになったけど、彼とは大学で一緒にスペイン語を学んでからの付き合いだから、あれこれ五十数年、おいおい半世紀を越えたよ」
「どうも話が湿っぽくなりそうだから、話題を変えよう」
「じゃ、少し明るいニュースを。北里大特別栄誉教授の大村智さん(80)のノーベル医学生理学賞受賞が決まったそうだね」
「文学賞あたりはどういう基準なのかはっきりしないけど、化学や医学分野ははっきりしていていいね。特に今回の受賞は素人目から見ても実に明快で心からお祝いしたい」
「彼の記者会見の言葉いいねー。あのアホらしいSTAP細胞騒ぎの後だからなおさら爽やかだね。彼こう言ったそうだ、【私自身がものを作ったり、難しいことをしたりしたわけではない。全部微生物の仕事を整理しただけ。それなのにこんな賞をいただいていいのかな】、泣かせるねー」
「そう、大自然というか造化の神様に対する畏敬と謙虚さ。遺伝子組み換えとか原子炉工学で大自然をぶっ壊そうとしている傲慢な学者たちに大村さんの爪の垢でも煎じて呑んでほしいね」
「そうだね、自然界に存在しないものを新たに造り出そうなんて妄挙を慎んで、もっと大自然の神秘に打たれるべきだね」
「毎年、そこらに健気に咲いてくれる小さな草花一つとっても、だれに見られる褒められるでもないのに精一杯美を競っている姿を見ると、ほんとそれだけで涙が出てくる」
「君、それ老化現象だよ」
「いや違うよ。涙もろくなるというのはそれだけこうして生きていること、こうしてお天道様の恵みを受けられることを全身でありがたく思えるようになったからこそだよ、君」
「君って私のこと?……まっいいかそんなこと、人類すべて兄弟だもんな」
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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