金庫の秘密

大震災の後遺症、それとも寄る年波のせいだろうか、(たぶん後者)、記憶が途切れて、物事の脈絡がつかめないことがたびたび起こるようになってきた。すると記憶だけでなく、私の身の回りのものまでが途絶の顔つきを見せはじめる。
 たとえば金庫。金庫といっても縦・横・奥行き50センチほどの小型の金庫だが、何のため、いつ、どこで購入したかもはや定かではない。ところが暗証番号を押して開けるその金庫が震災後とつぜん開かなくなってしまったのだ。電池切れかなと思い、新しいのに換えても開かない。台東区元浅草にある製造会社に連絡すると、それではマスター番号を○万円で教えます、という。仕方ない、背に腹は代えられない。それが昨年十月頃のこと。そのときは無事開けられたのだが、それ以後使うこともなかった。
 ところが数日前、どうしても開ける必要が生じて、久しぶりに例のマスター番号で開けようとしたのだが、どうしたことかまた開かなくなっている。さあどうしよう、頭が真っ白。でもしばらく考えて、あの製造会社にもう一度電話をすることを思いついた。(このあたりそうボケてもいない)。すると応対した男の人から思ってもみないことを教えられた。つまり時々、充電式の電池では開かないときがあり、その時は市販の、普通のアルカリ電池で試してください、というのだ。充電した電池と普通の電池が出す電気に違いがあるんだろうか、と半信半疑ながら急いでスーパーに行き単三電池四本を買ってきて試してみた。そしたら何と、開いたのだ!
 いや、こんな下らない些事をだらだら報告したのは、他でも無い。こうした不如意に遭遇したとき、一瞬すべての脈絡が飛んでしまう老人特有の反応について後学のために(?)おさらいをするためだ。それに充電式の電池ではだめな器具もあるということを初めて知った。ともあれ今回はマスター番号の在り処を覚えていたので助かったが、忘れる危険もあるのでそれをもう一箇所、いつでも身近なところにあるものに記録しておくことにした。それはどこか、だって? いやいやそんなこと教えられません。
 いや、いや(と今度も二回言う)、こんな駄文を弄したには、もっと深い理由もありました。それは先ほど、この金庫をいつ、どこで購入したか定かでないと書いたが、それだけでなく何のために購入したかが分かる文書が金庫の中に入っていたことを紹介するためである。それは「父上様」と書かれた封書の中に入っていた美子の八王子時代の手紙である。それを全文以下にコピーしてみる。

父上様

 現在の病院の入院期間も約一年になり、病院側からはそろそろ転院を示唆されていますが、今後どれだけ快適な治療を受けられる病院に移れるかどうかは、もちろん金銭的な事情に関わります。しかしお二人の介護をする私自身がこれまでのように金銭面の状況をまったく知らされていないのでは、今後の計画が立てられません。具体的に言いますと、預金通帳および銀行印といった貴重品を病室内に持ち込んでいるのですか。もしそうだとしたら盗難にあった場合、いったいどう対処するつもりですか。私に預けるのが、不安ですか。はっきり申し上げますが、結婚してからお父さんお母さんの金銭を当てにしたことは一度もありませんし、これからもありません。しかし今このような状態になっても私を信用していないのは理解できませんし、全面的に私を支えてくれているパパに対しても、たいへん申し訳なく恥ずかしい思いをしています。
 結論から言いましょう。今後とも私の世話になるおつもりなら、今後金銭的なことはすべて透明にすること、通帳・印鑑などは家にある金庫に保管すること(もちろんお金の出し入れは、すべて記録に残します)、以上のことをぜひ守ってください。

          平成十一年二月二日
                            美子

 
 こうした家庭の事情をさらけ出すのはちょっと恥ずかしいが、しかし一人娘の美子が父親に対してその理非を懸命に弁じている手紙を改めて読み直し、往時の美子の賢婦人(?)ぶりに感心したり懐かしがったりしている自分がいる。おかげさまでそれ以後、美子の両親との間に金銭的ないざこざはまったく起こらず、それから一年後の夏、後に残す妻と愛娘を頼んだよ、とでも言うように、奇しくも私の誕生日、義父・源一さんは享年93歳の天寿を全うした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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