このところ暇を見つけては例の豆本歌集を作っている。病妻の側で外出もせず、ひねもす背をかがめてなにやら細かい手仕事をしている老人の姿は、我ながらあまりぞっとしない光景だが、他人が見たらなおさらその感を深くするであろう。もしかして、いや確実に憐憫の情を催すに違いない。
でも見る人が見たら(?)政府転覆を図って、なにやら危険な作業をしているの図と見えるかも知れない。現に、T新聞のSさんは「平和菌をばらまくとは、佐々木さんらしいというか、現政権がいやがるような大いなるテロリストですね」とメールしてきた。さすが現役ばりばりのジャーナリストである。
今回はこの尻馬に喜んで乗せてもらおう。そう、私が作っているのは、歌集とは表向き、実は政府要人を狙う弾丸作りなのだ。そら見てご覧、紙と布そして糊は時間が経つにつれ、火薬と鉛に変化する。ただしこの弾丸の殺傷能力は限りなくゼロに近い。つまり相手の体内に入ると、血液中に溶解する。あとは「平和菌」の歌詞にあるとおりの効果を徐々に発揮する。
だったらいいな!
ところでもう一つ元気が出るような話をご紹介する。今日の便でラテン・アメリカ文学者でガルシア・マルケス研究家の米谷勲さんから大きな、しかし薄手の茶封筒が届いた。何だと思って開いてみると、「みすず」2016年1・2月合併号「読書アンケート」の部分コピーである。赤線が引かれた箇所を見ると、ドイツ文学者でアドルノやワーグナー研究家でもある三光長治さんが5冊ほど年間の収穫として挙げた中に、富士貞房の『風景と物語の創造――モノディアロゴスXⅡ』(呑空庵、2015年)があるではないか。こう書かれている。
文章の世界で “野に遺賢あり” とは、まさにこの私家版の著者のような人のことだろう。いろんな意味で「わが党の士」でもある。エクリチュールの端々にいたるまで共感し、ページに棒線を引いたり、ちょっとした感想を書き込みながら熟読玩味した。
Hurrah!こんなに嬉しい書評もらったことがない!このブログを毎回愛読してくださっているごくごく少数の人はともかく、まさに空を打つように、確かな手ごたえの無いまま書き続けてきたものを、見る人は見ていてくれていたんだ、とありがたく、そして嬉しく思う老テロリストであります ♬♫。
『モノディアロゴスⅥ』の中で「文は人なり」と先生が言われていますが、三光氏の書評は、まさにそのことを言われているように私は思います。繰り返し味読するたびに随所に言葉の味が迸り、読者の心の琴線に心地よい余韻を感じさせてくれる。言葉の味というのは、余程人間が出来てこないと生まれないものだと私は思います。
アベノミクスは完全に失敗しているのに、方向転換をせずに執拗に愚策に邁進している含羞なき安倍政権をみていると、怒りを通り越して喜劇に似た哀れさを私は感じます。真の政治家には含羞が必要ですし、先生の文章から醸し出される言葉の味は含羞から生まれてくるのかも知れません。