立野先生からの私信

私一人で味わうには、あまりにも惜しく、父のモノディアロゴスをご愛読されてこられた方々におかれましても、貴重な視座をもたらす玉文ですので、立野先生のご許可を得、以下にご紹介させていただきます。


淳さん、 


(中略)

それから、満州のことです。 

日本人は中国侵略の事実を認めて悔い改め、
一から出直さなくてはならない、という稔様*の痛恨の言葉を、
バッパ様をとおしてしばしば耳にし脳裡に刻んだ、
と先生がブログに書いておられたのをわたしも思い出しています。 


わたしの父は満州で生まれ育った人間でしたから、
現地での生活の様子を詳しく母に語る機会がなんどかあったようです。
稔様とは生き方も考え方も同じだったとは言えないかもしれません
が、「満州」という近代日本の負の記憶の共有者として、
亡父も位置づけられるべきことにまちがいはないわけです。

亡父の父親つまりわたしの祖父は、若い時代に満州にわたり、
東寧からほど遠からぬ地で事業を起こし、
成功した人だったと聞いています。建築用のレンガを製造販売し、
会社名もずばり立野公司だったとか。 

亡父少年時代の体験に、
馬賊による襲撃の夜の記憶というものがあり、
母はその体験談を聞かされるたびに、
恐しさに胆がつぶれるような気がしたものだと、
わたしによく言い言いしていました。 

ある晩、いきなり自宅が馬賊の襲撃に遭い、
とっさに子どもや女たちは縁の下に潜り込んだ。
頭上では部屋を荒らし回る物音や出入りする足音。
それがいつなんどきはたと止まるか、
いつなんどき居場所が見つかって引きずり出されるか、
分からない。ただただ息を殺し、
かれらが立ち去るのを待っていた、うんぬん。 

情景をありありと自分の頭に思い浮かべながら、
わたしは母の話を聞いていました。
母もまた父から聞かされたとき、
わたしと同様だったことでしょう。

つまり、大学にはいる前は、
わたしも恐怖の追体験としてその話を聞いただけでした。それが、
後日多少ものを考えるようにもなり、
匪賊の発生や出現の歴史的必然に思いを馳せるようにもなりますと、
満州馬賊に対する従来のわたしのイメージも変わらざるを得なくなりました。 

英国の歴史家ホブズボームの名著に『匪賊』なる研究があります。ロビン・フッドからジェシー・ジェームズまで、世界を視野に入れて考察した匪賊研究ですが、
満州馬賊を考えるうえでも、
わたしは裨益されるところ少なくありませんでした。 

以来、亡父の父親の邸と会社を襲った馬賊の少なからぬ成員が、
立野公司の土地の前の所有者か、
あるいはその係累に当たる地元の人々だった可能性を否定できない、とわたしは考えるようになりました。 

父親に直接疑問をぶつけるわけにはまいりませんでしたから、
代わりに母に訊ねました。初めこそ母も当惑した表情を浮かべて、
答えに窮するようだったものの、話題がそこへ及ぶたび、次第に、
そもそも近代日本における満州開拓とはなんだったのか、
という歴史的淵源にまで考えが遡って行くようになったのです。
チャンコロ、チョン、ロスケといった民族的蔑称の理不尽さも、
母親と息子のあいだで紆余曲折を経ながらも、
徐々に意識化されていきました。 

もしも父親が生きていれば、
どのような総括ののちに戦後日本人として再出発したのであったか
を訊ねてみることもできたでしょう。 


息子とのあいだに歴史認識や価値観の対立が際立つだけだったろうか。
それとも自らの帝国植民地主義を批判的に乗り越えるような地平で
生きようと決意していただろうか。
それは今となっては不明ですが、
父の蔵書のうちほんのわずか残っていた書冊から推測する限りでは、リベラルな志向はあったようです。 


生前の母親は、いちどだけでもいまの東寧を訪ねてみたいねぇ、
と口癖のように言っていたものです。それももうかないません。 

負の記憶も含めて、記憶は記憶それ自体として、
生者の人生にはたらきかけてきます。
直接の体験的な記憶を持たないわたしや、
わたしよりあとの世代でも、
親や祖父母との対話や聞き取りをつうじて、
また書物や映像による知識や情報をつうじて、
しかしなによりも自分の想像力と感受性と他者への共感をつうじて、過去の歴史の総体と向き合おうとする。
その努力と謙虚さと熱意のみが、
現在から未来を作り出すことを可能にするとわたしは信じます。
 

アジアに属する現在のわれわれやわれわれの国が、
その努力の重要さをほんとうに自覚しているとは思えないというの
が如何せん現実ですが、その努力以外に、
日本人が人としてまっとうに生きる道があり得ないこともまた、
依然として確かな事実でありましょう。 


佐々木先生の日々の思考や意見の根底には、
つねにその認識がありました。 

先生の認識はアカデミズムやジャーナリズムに依らず、
一見単調と見える日常の生活をとおして、
生涯持続させられたのです。 

そうです、一見単調と見える日常の生活をとおして。 

まさにそれが、現代の人間のありうべきreligious attitude つまり「宗教的な心がけ」の実践にほかならぬ。そのことを、
佐々木先生はわたしたちに示してくださったのです。 



立野正裕 

* 富士貞房Jr.注: 祖父・稔(1910-1943)のこと

2019/04/04 12:28

【追伸】先生より、「 重心を低く保ちつつ…… 」と題して、ご返信のメールを賜り、以下のようなメッセージを頂戴しました。先生の思索を補完するものとして、追記いたします。

モノディアロゴスの精神が途絶することなく存続し、多くの人々の日常の思考になんらかの刺激をもたらすことが出来れば、先生の稀有の精神と魂は淳さんとともに、淳さんを通じて、生き続けるわけです。 
先生のような方の思想と精神と魂を、われわれのような後の者が委託としてなにほどか引き受け、この先も歩き続ける。現代のように、なにもかもが加速化し、短小化してしまうような時代であればこそ、ここは一つ、反時代的なまでに愚直でslowな徒歩型の思考に固執したいものです。重心を低く保ちつつ……です。

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立野先生からの私信 への2件のフィードバック

  1. 守口 のコメント:

    立野先生
    先生ご一家の家族史から、満州への史実をご披露いただき、心して読ませていただきました。私も昨年、長野阿智村の満蒙開拓記念館を訪ね、この3月1日ソウルの侵略歴史記念館を訪問して学んできたことと考え併せ、先生のコメントに賛同の気持ちを表明させていただきます。現下の政治情勢とは別に、過去の歴史に誠実に向き合うことは、いまを誠実に生きようとする基本の地平だと考えますし、そうして初めてお互いの人間の尊厳であるとかそのうえでの平等とかが発想できるのだと考えております。そうでないと身近な人に愛情を傾けることとの間に、断絶が生じてしまいます。日々そんなことを考えているわけではありませんが、先生の素晴らしいコメントを読ませていただき、また気持ちを新たにいたしました。感謝いたしております。

  2. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    守口様、貴重なコメントを賜り、心から感謝申し上げます。立野先生より以下のメッセージを託されましたので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

    淳さん、
    守口さんのコメントを興味深く読ませていただきました。直接談話室にうかがうことが困難なので、お手数ですが転送していただければさいわいです。

    守口さん、
    拙文へのごていねいなコメントをありがとう存じます。関心を掻き立てられながら拝見しました。
    満州はもとより、朝鮮半島から中国大陸にかけて、近代帝国主義時代の日本による侵略と支配の歴史を曲がりなりにも辿り直す旅をいつかは実行せねばと思いながら、いまだいちどもその機会を得ないまま今日に至っている始末ですが、亡母から聞かされた話やわが家に残っている古いアルバムなどによりますと、父は現在の北朝鮮で旧制農業高等学校に学び、 若い植民地主義者として東亜の団結を素朴に信じていたようです。卒業すると国策に沿っていっそう研鑽を積むべく、内地では拓殖大学に進みました。当時拓大には大川周明が教鞭を執っており、父もその講義を熱心に聴いた可能性が高いのです。
    学生服姿の父が台湾の現地部族の族長の娘とならんで撮ったスナップや、「東亜の民一堂に会す」と題された学生懇親会の記念写真などもアルバムには貼りつけられています。
    したがって父は当時の日本の学生のごく平均的な一人だったと考えられます。
    繰り上げ卒業で応召すると九州から出征して南シナ海に向かったようです。右か左の足裏を銃剣で突かれ負傷したものの、生還を果たしました。つまり接近戦を経験して九死に一生を得たわけでしょうが、代わりに敵兵は父と逆の運命を辿ったことになります。それかあらぬか、戦闘の詳細については、母を含め周囲に語りたがらず、戦友会の誘いにも応じなかったと母から聞きました。
    のちにわたしはしばしば想像したものです。父は接近戦もしくは白兵戦の惨たらしさを身をもって知ったのだろう。殺さねば殺されるというぎりぎりの状況に一再ならず身を置いたのだろう。
    満州で成功した入植者の家に生まれ、やがて八紘一宇の美名と東亜の団結という大義を疑わず、応召して南方に向かった一青年だったが、戦いののち運よく生還した。
    とはいえ、いったいどのようなかたちで自己と折り合いをつけ、戦後の日本で精神上の再出発を可能にしたのであろうか。
    わたしが五歳になる前に父は事故のため亡くなりましたから、いくら思案をめぐらしても、あくまでわたしの想像の域を出ないわけです。それでもわたしにとっては、十五年戦争期の平均的な若い日本人を思い描いてみるのに、父の青春はおぼろげであってもそれなりに一つのリアリティを提供すると言わなくてはならないのです。
    すでに古稀を過ぎた身ではありますが、これまでと同じように、これからも、近代以降の日本と日本人のありようを見つめてゆくことが、戦後世代の自分の変わらぬ課題となるだろうと考えています。
    満州開拓団のことは、十五年ぐらい前に調べかけて講座などもひらいたことがありますが、まだまだ勉強しなくてはなりません。どうかまた、ご教示をお願いできればさいわいです。
    立野正裕

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