ハポンさん来訪後日譚

不思議なもので、いや当たり前のことだが、熱を帯びて語った話の内容を改めて報告するのは難しい。話すことにエネルギーを使い切ったからでもあるし、何よりも時間の経過がその話を急に色褪せたものにしてしまうからであろう。そうは言っても、あのままではスッキリしないので、後日譚として二つのことを付け足そう。一つは、あの夜私の方からいろんなことを申し上げたが、一つだけ彼らにとっては未聞のことをお話しした。それはここでも以前に書いたことだが、十七世紀初頭、御宿沖で難破したスペイン船を手厚く救助したお礼を述べるため来日したヌエバ・エスパーニャ(新スペインの意 16~19世紀のメキシコ、パナマ以北の中米・スペイン領西インド諸島・米国南西部・フィリピンから成るスペイン領の地域)の使節ビスカイーノ一行が、伊達政宗面会のため北上する途次、陸路この相馬を通った史実である。
 これは震災後、隣りの相馬市史委員会からの依頼で、『かつてスペインが支配したアメリカならびにオセアニアの発見・征服そして統治に関わる未刊行資料叢書』第八巻の相馬訪問のくだりを翻訳した際に、私自身初めて知ったことである。もちろん今回来日したハポンさんたちとは直接関係の無いことではあるが、しかしそのビスカイーノ一行が、支倉常長ら遣欧使節一行と一緒にメキシコまで同道し、その後使節団はスペインやローマに渡ったのであるから、間接的とはいえ深い関わりのある史実である。数ページほどの原文史料のコピーを差し上げたが、彼ら大いに関心を持ってくれた。つまり彼らの南相馬訪問がその事実によって一気に400年近くの時空を越えて彼らのご先祖さま(と推定される)と結びついたからだ。
 特にその400年ほど前にも大地震と津波に襲われた当地の相馬藩主大膳殿が、城内が被害いまだ修復できないため門外で使節一行を丁重に迎え、金子(きんす)や糧食を提供した上、主だった侍たちに一行を先導させ旅の無事を保証したという美談でもあったからである。
 さてもう一つは、その支倉常長にまつわることである。というのはプラテーロさんが別れ際に美子へと下さったお土産が、金糸で織ったかわいい小さな袋入りの「ハセクラ」印の香水と石鹸だったことである。ともにコリア・デル・リオ産のオリーブとレモンを素材にした商品で、ハポン姓のスペイン人が脚光を浴びたことを機会に設立されたと思われる Ahenea いう会社の製品である。
 ついでだから蛇足をひとつ付け加えよう。彼らの訪問のあとネット検索で逢坂剛という直木賞作家がハポン姓スペイン人を題材にした短編小説を書いていることを知って、アマゾンに注文した(『ハポン追跡』講談社文庫、1995年)。ストーリーテラーの常套手法なのだろうが、作者自身のハポン探索に関する実際の史料収集話に、エタ(バスク過激派)の追跡劇をからめた短編なのだが、推理小説耽読からずっと遠ざかっていたせいか、どうもぴんとこなかった。ハポン姓をめぐる史料探索だけでも面白い題材なのに、無理に事件をからませたとの感がぬぐえなかったからであろう。実は例の破壊された価格でもう一冊、彼の直木賞受賞作『カディスの赤い星』(講談社、1986年)も手に入れたのだが、今はちょっと読む気力も失せてしまった。
 ただ作者について一つの不確かな記憶が蘇ってきた。つまり静岡の常葉学園大学のスペイン語学科創設に関わって2年目くらいだったか、学生たちのスペイン語学習の意欲増進(?)のため、初年度から始めた公会堂を借りての「スペインの夕べ」と銘打った催しに、ゲストスピーカーとして彼を呼んだことがあったのではないか。スペイン歌曲の柳貞子さんや評論家の森本哲郎さんのことははっきり覚えているのだが、逢坂氏のことはもはや判然としない。ただ或る滑稽なエピソードだけはしっかり覚えていた。つまり氏を紹介する段になって係りの女子学生が氏の代表作の一つ『百舌の叫ぶ夜』を「ヒャクゼツの叫ぶ夜」とスピーカーで大きく流してしまったのだ。だが彼女の失策だけが鮮明なのに氏の姿や話そのものがまったく思い出せないのである。もし記憶どおりにそのとき逢坂氏の講演があったとしたら、講演のあと責任者(?)として謝罪したかどうか。それも記憶からすっぽり抜け落ちている。いやはや。 

※蛇足の蛇足 昨夕、仙台から孫たち無事到着。今朝から愛はすぐ側の第二小に通い始めた。さっそくいい友だちがたくさんできたと報告。これで一安心。頴美も少し瘦せたけれど、思ったより元気なので、これも一安心。この二安心で他の不如意なことなど気にしない気にしない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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ハポンさん来訪後日譚 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生が蛇足の蛇足で言われたことに、モノディアロゴスの中にあった言葉を思い出しました。

     「小さな幸福を喜び感謝しながら生きていくこと。」

     私たちは、ともすれば、平凡な毎日の中で穏やかな一日を送れたことを当たり前なことのように思ってしまいがちですが、自分の周りにいてくれる多くの人たちのおかげで、生かされていることに感謝することを忘れてしまっているように私は感じています。フランスの自爆テロなどの報道を聞いていると世界中で悲惨な出来事が毎日のように起きています。今日一日を無事に過ごせたことに感謝して生きる人間でありたい。モノディアロゴスと出合ってから私はいつもそう思っています。

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