高田宏さんと『午後』

このところご無沙汰続きだった。書きたいことが無かったわけではない。ただ時間がやたら早く過ぎていくことに茫然自失の態で、どうにも書く気力が湧いてこなかったのだ。
 たとえばギャートルズについて書こうと思っていた。私には珍しいことだがなぜか園山俊二という漫画家の名前も覚えていた。そしてアマゾンから『ギャートルズ』第三巻(中央公論社、1988年)という900ページの大冊を送料込み336円(!)で購入もした。自慢にもならないが、小さい時からマンガ本を買ったことが無い私にとっては異例のことである。唯一例外は、確か小二のとき(帯広市大通十一丁目に住んでいたころ)、或る日の夕刻、近くの本屋さんから『轟先生』を買ってきたくらいだ(それについては「活字本の行方」という題でここでも既に書いている)。
 なぜギャートルズか、それについて書こうと思っていた矢先、それも今朝、何気なく手に取った本をきっかけに意外なことが分かり、とりあえずそれを先に書いておかなければならなくなった。先日に引き続き、湿っぽい話で恐縮だが、一人の古い友人の死についてである。
 何気なく、と書いたが、この数日、無聊を慰める(?)ため、というより、ちょうど『モダン・タイムス』のチャップリンが流れ作業のネジ締めの癖が体に染み付いて、通りを歩くご婦人方のスーツのボタンまでスパナで締めたくなる衝動に駆られたように、目に付く本という本をすべて修復したいという、なかば病気のような衝動に駆られて、例の如く端切れで古本の装丁作業を続けていたのだが、今朝取り上げた本も、カバーを剥がれてむき出しの白い表紙を何とか温かな装いでくるんでやろうと思った次第。その本とは高田宏さんから頂いた『われ山に帰る』(新潮社、1982年)である。
 発行年の1982年と言えば、清泉女子大から静岡の常葉学園大に移る二年前、今は亡き武田友寿さんと図って新しい同人誌を始めようとしていたときである。私は既に「青銅時代」同人だったから、たぶんこの話の言い出しっぺは武田さんだったと思う。同人候補として彼が探し出してきた人は、文芸評論家の松本鶴雄さん、利沢行夫さん、そしてもう一人、エッソ石油のPR誌ながら宣伝臭のない「エナジー」の名編集者で、大槻文彦を描いた『言葉の海へ』で亀井勝一郎賞を受賞した高田宏さんだ。武田さんも『遠藤周作の世界』で同賞をもらっていたから、その関係で高田さんを引き入れたのかも知れない。
 さて本自体は感じのよい装丁に仕上がったのだが、だいぶ前から音信が途絶えている彼は今どうしているのかな、とネットで調べる気になったのである。ところがなんと、ほんの数日前に肺ガンで亡くなられたことが分かった。朝日のデジタル版をそのまま引用する。

「作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞
2015年12月1日20時58分

 言語学者として国語の統一に尽力した大槻文彦の伝記『言葉の海へ』で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。
 エッセー『木に会う』で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。」

 だから高田さんの本を手に取ったのは、彼が呼びかけてくれたからかも知れない。ところで例の同人誌のことだが、紆余曲折のあと誌名は「午後」となり、その前後、打ち合わせを兼ねて主に五反田で彼と何回か飲んだ記憶がある。京都の生まれで、風采も話し方もなかなかダンディーな方だった。しかしその同人誌は、創刊号を出したきり後が続かなかった。前述の通り私も静岡に移ったこともあってか、今はどうしてもその理由が思い出せない。
 ともあれ私はそこに『呑気症』という短編を書いたのだが、高田さんを含め他の同人諸氏が何を書いたのか、確かめようにも書棚のどこかに紛れ込んでいて見つからない。高田さんとはその後も時おり手紙の交換は続いたと思う。静岡から八王子に移ってからは、無類の猫好きだった彼とはよく猫について知らせ合った。そんなハガキが一枚見つかった。

「お手紙、雑誌、シール、ありがとうございました。
 グレさんはかわいいさかりの死だったのですね。ご冥福を祈ります。うちの猫たちは昨秋相次いで老衰死し、いまは若猫二匹が残っています。といっても八歳と二歳ですが。
 八匹の猫ちゃんにどうぞよろしく。
                      二〇〇〇・一一・一五」

 最近はすっかりご無沙汰が続いていたが、彼の名を思わぬところに発見したこともある。震災後懇意にしていただいている相馬の岩本先生も対話者の一人である『対話「東北」論』(岩本由輝、樺山紘一、米山俊直) 刀水書房、2003年、の編者が彼だったのだ。それでいま追悼の意を込めて、彼の「あとがき」を読んでいる。東北に対する彼の熱い思いに感動している。岩本先生とご一緒に東北論を話し合いたかったのにと残念である。しかし彼の本は貞房文庫のリストに他にも以下のものが見つかったので、これから時間を見つけて読みたいと思っている。ただし読売文学賞をもらった『木に会う』は無い。アマゾンを探すと例の破壊された価格のが見つかったのでさっそく注文した。

言葉の海へ、新潮社,1978,4刷.
本のある生活、新潮社,1980,5刷.
おや、旅だ!、新潮社,1981.
「吾輩は猫でもある」覚書き、講談社文庫,1988. 

 お気づきの方もあろうが、最近、たとえ破壊された価格でも、もう本は買わないと決心したが、その原則(?)は早くも崩れ始めている。まったく不要になった本も未練がましく取っている場合もあるので、徐々にその方を処分しなければなるまい。
 最後になってしまったが、天国の高田さん、あなたの本を読ながら、また猫談議でも続けましょう。
 そんなわけで、ギャートルズのことは次回のお楽しみに!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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