或る編集者の死

流れの速い河水のようにすべてが忘却の彼方に消えてゆくようなはかない気持になるときがある(幸いいつもではない)が、そんな時、河岸に滞っている枯れ枝に、過去の記憶の断片が絡み付いているようなこともある。昨日も、ペン立ての横に挟まっていた新聞の切り抜きから、辛うじて拾い上げられた記憶の一片があった。切り抜きそのものは古いわけではない。昨年三月十日の朝日新聞の「惜別」というコラムだ。そこには編集者でもあり歌人でもあった鷲尾賢也さんの写真入りの追悼文が載っていた。二月十日、脳出血で亡くなられたそうで、享年六十九歳。
 彼が小高賢という歌人でもあったことを初めて知った。私の知っている彼は、講談社新書の編集者時代のごく限られた側面だけである。それは『ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯』(1976年)の出版に際して彼と面識を得たころのこと。何回かの接触があったはずだが、いま蘇ってきたのは、当時住んでいた世田谷・鎌田のすぐ側にあった健保グラウンドのベンチでの彼との会話だけだ。なぜそんなところで、の理由は覚えていない。
 会話といっても残っていたのはいつもの通り(?)褒め言葉だけ。彼は小説家の安岡章太郎さんのところにも出入りしていたようで、その安岡さんが私のことを「彼は小さな女子大なんかにいる人ではない」とおっしゃったらしい。直接ではなく間接的に言われた褒め言葉だけにひとしお嬉しかったことを今でも覚えている。ところが当の私は、それから間もなく世間的には栄転と思われる筑波大への移動を断って静岡の私大に、最後は八王子の女子短大へと、自ら志願して移っていったのはともかく、以後もさっぱり目覚しい仕事をしなかったのであるから、もしかして安岡さんのご期待を裏切ったのかも知れない。
 それはともかく、その現代新書は私の出す本にはめずらしく5刷までいったのに、どういうわけか絶版扱いにされてしまった。それを根に持ったわけではないが(?)、以後鷲尾さんとは交信が途絶えたままだった。彼は「現代新書」以外にも「選書メチエ」や「日本の歴史」など多くのシリーズ物を手がけただけでなく、学芸局長、取締役などを歴任し、退社後は出版・編集関係の評論活動に従事したらしい。今回の記事によると、彼は福島第一原発の事故以降、週末は官邸前の反原発集会に通っていたとある。
 佐々木がその被災者の一人であったことはもちろんご存じなかっただろうが、しかし生きていればもう一度旧交を温めたかった人が、また一人いなくなった。残念である。アマゾンで例の破壊された価格で小高 賢名義の『老いの歌――新しく生きる時間へ 』(岩波新書) という気になる題名の本を見つけたので、追悼の意を込めてさっそく注文した。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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