九月四日(金)曇り
正直ちょっと気が抜けている。「青銅」への原稿、満足ではないが、いまのところ精一杯という感じで、プリントアウトして三人に送った。まず編集長、そして石原さん、中村さんに。出版元のS社にそのままメールで送ろうか、と思ったが、編集長の話では彼自身の原稿がまだらしいので、プレッシャーをかける意味でも(?)、とりあえず彼に送ったわけだ。
さて次の課題は? オルテガの『大衆の反逆』の翻訳完成がまだ残っているが、担当編集者が入退院を繰り返していることもあって、相手方の進行しだいという状況になっている。翻訳原稿はともかく、いずれ解説を書かなければならないので、そちらの方をそろそろ準備しなければならないのだが、事態が動き出さないと本気が出ないという悪い癖で、いまいち(なんて辞書にあるのだろうか…ありました、というと新造語じゃなかったのか)とりかかれないでいる。
久しぶりにノルマなしの読書を、と思って実は小川国夫の『青銅時代』を読み始めたのだが、どうも今の私にはすっと入ってこない。描かれている対象が青春群像だからだろうか。そうでもなさそうだ。要するに登場人物たちの内面があまりにも詳細にくっきり描かれていることが煩わしく感じられるのだと思う(またまた他人事のように)。もちろん小川国夫の場合、いわゆる心境小説のように登場人物の心理の動きが描かれているわけではない。小川国夫にとって心理などではなく、むしろ心のそのものの形や動きに興味があると言えよう。たとえば恋人満枝と歩いていて偶然出会った教え子晃治に対する心の動きをこう描いている。
「そう言って彼(=晃治)は、なんでもない小さい仕種をした。それだけのことが私の心に触れ、さっきよりも強くあの眼を意識してしまった。彼のはにかみが私たちを隔てているのがもどかしかった。いきなりその隔てを取り払って、世界を共有することはできないものか、それは男同士が抱く興味とは少し違っていたが、そんなことにも私は惹かれているのだ。暗がりで薄の葉の縁に擦られるような、爽やかに脅かすものがそこにはあった。私は態度がぎこちなくなりそうで困った」。
確かに心理描写というより極めて即物的な心の動きが描写されており、特に後半部は小川国夫独特の直喩が効果的に使われている。読者は彼のそうした清冽な表現に惹かれるのだが、今の私(こだわるようだが今の私である)には、この青春の過剰がいささか煩わしい。すみません、小川さん。
といって大江健三郎にも今は戻りたくないか。こういうときは魯迅にかぎる。まだ読んでいない作品、読んでも忘れている作品がまだまだある。この際、少し集中的に読んでみようか。