風邪が治りかけたと思ったら、四、五日前から左下奥歯(と言っても既に二本くらい抜けていて、それでも奥歯と言えるならの話だが)の歯茎が痛み出し、今日の午後、とうとう我慢ならず電話で急遽治療を頼んだ。月一度は美子のために往診してもらい、私自身も月一度定期的に治療を受けているH歯科医院なので、なんとか無理が通ったわけだ。
若いときならこれくらいの痛さなどものともしなかったはずだが、この歳になるとほのほのという軽い痛さにもこらえ性がなくなってしまう。ところで若いながらさすがH先生、レントゲン写真を撮ってたちどころに痛む箇所を特定して治療し、痛み止めと抗生剤を出してくれた。かくして何日ぶりかすっきりした気分で帰ってきた。
留守中、帯広の史子さんからの絵はがきが来ていた。健次郎叔父亡きあとの短い近況報告だが、その絵の説明文「春の石狩岳=上士幌町 十勝三股(画・岸本貴司)」を読んで、急に「ミツマタ」という言葉に懐かしさを覚えた。絵は遠景に雪の石狩岳、手前に小川と四本ほどの白樺が描かれた北国の春の情景だが、今は廃線になった士幌線の汽車に乗って、そこからさらに山側にあった祖父母の家を訪ねた時のことが思い返されたのだ。ミツマタなんて言葉、どう考えても他のことではなさそうなのだ。
もう嫌になるほど記憶力が減退し、いろんなことが忘却の海に沈んでいくのに、それでも頭蓋のどこかにこびりついた記憶の砕片がこうして思わぬ時に浮かび上がってくる不思議。
記憶力の減退などと言ったが、しかし物は考えようだ。つまり年を取るということは、茫洋と広がる忘却の海の中から、このように時おり、思わぬ瞬間に、まるで宝石のように懐かしい記憶の砕片が戴けるということでもあるからだ。だから物忘れに打ちひしがれてなどいないで、不如意なことさえもすべてありがたく受け入れた方がためになる。でも今回のような肉体的な痛さだけはなるたけ少ないに越したことはないが。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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文章を拝読して、「ミツマタ」という言葉から先生の詩を思い出しました。
旅のアルバム(十勝・坂下)
白い雲が流れ
高原に涼風が立つ
私の三人の従弟は
三叉路にまぶしくポーズをとる
あの頃は叔母さんも
病がちではあったが
まだ子供たちと一緒で
ふくよかな微笑を・・・
あれは北国の夏
都を遠くはなれた
透き通るような紺碧の空の
その光りが眼にまぶしい
すべてはあの夏空に
すいこまれ、はかなく
あゝ、風の音がよみがえる
(一九六五、八、七)
この詩の中の三人の従弟というのは、先生がこの上なく敬愛されいた健次郎叔父様の二つ上のお兄様(ばっぱさんの三つ下の弟さん)の子供さんで、叔母さんというのは、子供さんたちのお母さまのことだったと思います。三叉路というのは十勝三股のことを指しているのでしょう。
阿部修義様
いつもの通り、私自身さえ忘れていた古い詩を掘り出してくださり、ありがとうございます。でもこの詩の「三叉路」は「十勝三股」とは違います。坂下は帯広の南ですが、十勝三股は北に位置しています。これを読んで、その近くにお住まいの佐々木あずささんから何か教えてもらえるかも知れません。
いずれにせよ、いつも丁寧に私の書くものを読んでくださり、感謝です。
佐々木
貞房先生
この詩を書かれた年の11月13日は、先生が敬愛された安藤誠一郎叔父様のご命日であることを2003年4月24日「農村教師の夢」で知りました。絵はがきを通じて誠一郎叔父様のことを思い出されたのではないかと私は感じました。この詩を引用させてもらったのも、そういう意味でのことですが、三叉路の解釈は、私の勇み足のようでした(笑)