腕を掴むな(“Lisbon Revisited”より)
アルヴァロ・デ・カンポス
(I氏訳)
腕を掴むな
掴まれるのは嫌いだ 一人だけでいたいのだ
一人だけでだ 忘れるな
仲間に這入れなどと言われるのは遣り切れない
青い空――子供の頃とかわらぬ空――
虚ろにして完璧なる永遠の真実よ
遠い昔から黙して流れる優しいテージョ川
空を映す小さな真実よ
ふたたびおれの訪れた苦悩 昔にかわらぬ現在のリスボンよ
お前はなにもくれぬ 奪わぬ お前は無なるもの
そしてそれこそおれの感じているおれだ
(S氏訳)
腕に触るなって!
腕を組まれるのは嫌いなんだ ひとりでいたいんだ
ひとりきりだと言っただろう!
一緒にいてほしいなんて迷惑千万だ
ああ青い空――子どものころとおんなじだ
空虚で完璧な永遠の真理だ
ああ 父祖の時代から無言で流れるテージョ川よ
空を映し出す小さな真理だ
ああ 再び訪れたこの苦悩 昔と変わらぬ現在(いま)のリスボンよ
何も与えず 奪いもしない おまえはおれの感じる虚無そのものだ
平沼氏の意見
「腕を掴むな」はS訳の日常口語体は目障り。I訳の「ふたたびおれが訪れた苦悩」は欠点。「再び訪れたこの苦悩」(S)もそれほどよくなったとも思われません。いっそ「ふたたび訪れたおれの(我が)苦悩」-「リスボン」としても誤訳にはならないでしょう。
(クレスポ訳)
¡No me cojáis del brazo!
No me gusta que me cojan del brazo.
Quiero ser solo
¡Ya he dicho que soy solo!
¡Ah, qué fastidio querer que sea de compañía!
¡Oh cielo azul――el mismo de mi infancia――.
eterna verdad vacía y perfecta!
¡Oh ameno Tajo ancestral y mudo,
pequeña verdad en la que el cielo se refleja!
¡Oh amargura revisitada, Lisboa de antaño y de hoy!
Nada me dais, nada me quitáis , nada que yo me sienta sois.
貞房試訳
腕など掴まないでくれ!
ひとから誘われるのは嫌なんだ。ひとりでいたいんだ。
言っただろう、おれはひとりだって!
仲間になれだなんて、ああ嫌だ嫌だ。
ああ青い空――私の子どもの時と同じ――
完璧なまでにすっからかんで果て知らずの真理よ!
ああ、昔から心地良いまでに無口なテージョ川
川面に空が映る小さな真理よ!
そして再び訪れたリスボン、そのほろ苦さは昔も今も変わらない!
そう、お前たちは何もくれないし、何も奪わない
私が感じるのは、ただお前たちの無そのもの。
貞房の見解
詩人が語りかける相手は、青い空、テージョ川、そしてリスボンである。詩人は一方ではそうした懐かしいしがらみに惹かれながらも、一方ではそれらを激しく拒絶する。まさに引き裂かれているが、だからこそ逆説的に愛着が募る。
リスボンまでたどり着いたテージョ川は、上流のスペインではタホ川、あのエル・グレコの町トレドの脇を流れる川である。そこではテージョ川の「心地良さ」はなく、乾いた大地をまるで剃刀のように鋭くえぐって流れる。同じ川ながら、スペインとポルトガルの違いを見事に形象化した川である。
※ 平沼氏はさらに他の詩にも言及されているのだが、それらはいずれもクレスポ訳には見当たらず、したがって私にとって「改訳」のしようがないので、にわか翻訳教室はこれで打ち止めとする。なお今回、アマゾンからゼニス編訳のペソア詩集と散文集も手に入ることになった。これまでペソアにのめりこむとは自分でも思ってもいないことだったが、しかし前にも書いたとおり、徐々に A・マチャードへとシフトするつもりである。たしかにペソアにはセイレーンのような魔力がある。