文化会館→島尾家墓所→村上海岸(館)→般若峠→般若家墓所①→般若家墓所②→井上家本家→文化会館
午後二時から文学講座受講者の皆さんと、埴谷雄高・島尾敏雄ゆかりの地の散策をするというので、浮舟文化会館駐車場に十五分前に着いたのだが、いつもより車の数が多い。周囲の空き地にもびっしり車がある。あわてて裏手に回ったがそこも満車。あきらめて路上駐車もやむをえないかなと思ったとたん、運良く一台分が空いた。
会館正面に回ってみると、すでに九人ほどの方が待っておられた。ところで今日の時ならぬ車の混み方は、さきごろ中学校吹奏楽大会で金賞を受賞した地元の中学校の凱旋(報告)演奏会のためらしい。そういえば地元は合唱とか吹奏楽が盛んな土地柄である。結局公用車二台と受講者の方の車の合計三台に分乗して、右のような道順で、土曜午後の楽しい散策が始まった。島尾家の墓には、八王子に住んでいたころは、帰省するたびにお参りしていたが、移住後今日が初めての訪問となった。入り口近くのモーテルはまだ商売を続けているらしい。規制するわけにも行かなかったのであろう。墓と、時に狸か狐も訪れるやも知れぬモーテルとの奇妙な組み合わせ、もしかすると死者たちの無聊を慰める面白い人間ウォッチングの舞台となっているかも。
島尾敏雄の『いなかぶり』の舞台となった村上の浜は、自然浸食によって当時とはかなり相貌を変えているはずだが、トシオ少年とばっぱさんが危険を冒して渡った崖際(はたて)を洗う波は今日も相当に荒かった。そのはたての天辺にのぼるとそこは館(たて)と呼ばれる場所で、小さな古めかしい貴布根神社があり、その裏手に豊田君仙子さんの句碑(豪快なかつをの句)があった。ところで館と呼ばれる所以は、当初その絶景の地に城を建てるはずが、火災で建築資材が燃え、縁起をかついで築城を断念した土地だからだそうだ。
そのあと般若家墓地、般若峠、井上家本家と回り終わったころは、すでに日没に近かった。ともあれ今日は柔らかな秋の日差しの中で、それぞれの人生を生きてきたほぼ同年配の人たち(職員のTさんたちは別として)と、まるで心洗われるようなひと時を過ごすことができた。それは、むかし鎌倉で作家の眞鍋呉夫さんたちと味わった実に文学的な(?)午後の至福感に酷似していた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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