不思議なことがあるもんだ。先日、もうすっかり諦めて捨てようと思っていたビデオ・デッキが二台ともまた正常に動き出したのだ。衛星テレビのチューナーも兼ねたそのうちの一台などは、近くの電気屋さんに持っていって店主に見てもらったのだが、予想していた電源部分になんの異常もみられない。ということは、内部のどこかが壊れている。従ってこれはメーカーに送って修理してもらうしかない。期間は約1ヶ月、費用は一万六―七千円」。そんなことなら新しいものを買う方がいい、とその日のうちに量販店から代わりのデッキを購入したのだ。
ところがである。今日、とりあえず物置にでも入れよう、でも念のためと、スイッチを入れてみたのだ。すると、な、な、なーんと、ちゃんと動き出したではないか。何度もコードをコンセントから抜いたり、デッキの電源スイッチを切ったり点けたりしてみた。でも動くのだ。どうなってるんだろう。そしてもう一台の方は電源は入るのだが、再生ボタンを押して五秒もすると自然と切れてしまい、これもついでに物置行きだったのに、まるで申し合わせたかのようにやはり正常に動き出したのだ。
時計に限らず、最近の家電の多くは、一度故障してしまえば、メーカーで部品をそっくり換えるか、あるいはまるごと新品に買い換えるしかないという時代になってしまった。ほとんどの機械は、機能は分かっているが構造は分からないブラック・ボックスである。良いも悪いもない。これが時代の流れなのだ。それが嫌だったら、車社会を避けて孤立するアーミッシュのように、時代に逆らって不便な生活に戻るしかない。だがこれは、世に自然食品と呼ばれるものが逆に贅沢品となってしまったように、実はエキセントリックで不経済な生活になりうる可能性が高い。
ところであのデッキたち、どうしてまた動き出したんだろう。二台とも長らく使っていなかったことに関係しているのだろうか。もしかして、長い間放っておかれたのでむくれたのだろうか。われわれは簡単に生物・無生物と腑分けして、後者はたとえば愛情のような精神的なものにまったく反応しないと決めつけているが、果たしてそうか。板前の包丁、左官の鏝(こて)のように、使う者の愛情次第で、それに健気に応えようとするものかも知れない。明日から、時には電源を入れて、「やあ頑張ってるね」とでも声をかけようか。いや冗談じゃなく。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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