皇太子妃候補事件

皇太子妃の健康状態が思わしくなく、それで皇太子がいろいろと苦労されているようだ。天皇制や皇室そのものについて私なりの考えはあるが、国家の終焉が少なくとも私の生きている間は実現しそうもなく、また現代世界でもっとも成功しているかに思われてきたアメリカ式国家体制の、とくにその大統領制のおぞましさ、馬鹿らしさと比べるなら、まだしも天皇制の方がましかもしれない
 皇太子妃のことで思い出すのは、我が家を襲った不思議な事件のことである。雅子さんが初めて皇太子に会われたのは、一九八六年十月十八日、スペインのエレナ王女の来日を記念して東宮でスペイン関係者を招いて行われた歓迎会においてであったと言われている。実はそのとき、私ごとき田舎の(当時静岡に住んでいた)大学教師にまで声がかかり、ひたすら妻を喜ばせるためと自分に言い訳しつつ出席したのである。その頃は髭を生やしていたせいか、会の終わりに現皇后美智子妃が私のところまでつかつかとおいでになり、「ご専門は?」「えっ、あっ、はいスペイン思想です」「それでは聖テレジアや十字架の聖ヨハネなど神秘思想のこともご研究なさっているのですね?」などお聞きになられたのである。あゝこの人はさすが勉強なさっているな、と感心した記憶がある。
 いや、話をもとに戻すと、このときのことが後に滑稽な混乱を招いたのである。それから数年後(一九九二年?)のある夜、八王子の陋屋に突然「週刊文春」の記者が訪ねてきた。近ごろ東宮で皇太子妃選びに重要な意味を持つ夕食会が催され、そこにJ大学関係のS教授が出席されていたとか。ついては先生、その夜出席しませんでしたか。いや、寝耳に水とはこのこと、拙者そのような会に出席した覚えはござらぬ。それでも記者氏、なかなか納得してくれない。お宅に確かS女子大に通っているお嬢さんがおられますね、などとしつこい。最後は、絶対行かなかったといささか気分を害してのこちらの剣幕に、記者氏しぶしぶ帰っていった。そんな事件である。
 男のお子さんに恵まれず辛い日々を送られた雅子さん。それに引き換え、わが家の幻のお妃候補は(もちろんあの記者氏の早とちりだった)先日元気な男の子を出産。やんごとなきところにお住まいの方々は、可哀想にいろいろプレッシャーがかかって大変でんなー。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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