ヨブ的悲嘆(その二)

表題に(その二)としたのは、およそ13年ほど前(2005/5/31)に同名の文章を書いたからである。内容はもちろん半ば冗談である。だいいち、私はヨブのように信仰の人ではない。震災後知り合って親しくお付き合い願っている或る神父さんの、彼は教会には来ないが信念の人ですから、という評言を人伝に聞いて嬉しくなっている態の不信心者である。旧約聖書のあの偉大なる人物の名前を冠したのは、前回同様(前回は糖尿病発覚に繋がった)、彼ほどの皮膚病(象皮病か)ではないがともかく皮膚炎に悩む男だからというただの一点からだが、クリニックと病院の皮膚科で処方してもらった薬が一向に効かないでいる。アレルギー性、アトピー性など重なりあっての、いや簡単に言えばただの老人性皮膚炎なんだろうが、一進一退を繰り返していて、それがストレスになってまた炎症を悪化させている。ある友人から、三日ほど絶食すれば治りますよ、と誠にありがたくもまた非情なご忠告もあったが、それを敢行する勇気がない態の信念の持ち主である。
 ヨブが難聴であったかどうかは知らないが、この現代の偽ヨブは難聴でもある。安い集音器ではやはり用を足さないので、パリ・ミキから補聴器をレンタルしているが、しかしこれとて難聴の不便さを解消してくれるわけではない。つまり面と向かって話しかけられれば聞き分けられるが、周辺での話し声は全く理解できないのである。特にテレビ・ドラマなどのセリフはほとんど聞き取れない。
 いや他人の皮膚の悩みや難聴のことなんぞ聞いてもクソ面白くもないので、この話はここまで。ところで残念ながら悲嘆の理由はそれら以外にもいくつかあるが、しかしその前に、およそ一月ほどの入院を終えて美子が無事帰宅できたことをまず感謝しなければなるまい。顔色も良く、反応も以前に戻っての自宅療養が始まった。今月いっぱいは、訪看さんたちが朝昼晩と三回も来てくださって胃婁が体になじむまでお世話してくださっている。ともあれ来月からは朝晩二回の栄養剤注入は私の担当になるので、それまでなんとか手順を修得しなければならない。
 朝晩三回も訪看さんが来て下さるのは誠にありがたいのだが、ベッドのすぐ傍の机に向かっている私としては、読書にも身が入らないし、さりとて訪看さんの作業を、たとえ見習い中とは言えいちいち見ているわけにもいかず、結局はその間、豆本や私家本の印刷製本をすることになった。こうしてこの十日ばかりの間に三、四十冊は作ったか。
 しかし以前のように単発ながら注文する人も絶えてなくなった現在、新たなさばき先を見つけなければならない。つまり今までのようにせめて製作実費と送料だけでも、なんてケチな考えではなく、例えばすでに佐々木梓さんの呑空庵十勝支部や中西圭子さんの仙台支部が実践しているように、無料貸し出し文庫を作ってもらうことである。この際どなたか手を挙げて下されば、即刻準備にかかりますが、いかがですか。
 実はヨブ的悲嘆のもう一つは、そのことと関係無きにしもあらず。というのは或る人の仲介で個人宛ではなく或る組織にそれぞれ30冊の私家本を贈呈したのだが、以後いっさいの連絡がないことである。組織と言っても別途送った手紙はそこの長に当たる人宛なので、せめてハガキなりとも(あるいはメールなりとも)受領の連絡が欲しいところ。かなりの重量なので郵便局の駐車場から窓口まで折り畳み式キャリーで運んだり、いやそんなことより一枚一枚丹精込めて作った本の数々、御礼でなくともせめて受領の報告ぐらい、と思うのは自然だが、しかしもしかすると皮膚炎+難聴によるストレスがいつの間にか積もり積もって、それで気短になっているのか。
 そういえば先日も、美子退院の夕方、支払いを済ませて駐車場に向かう途中、このままでは今晩眠れそうもないな、と思い、取って返して会計窓口のお姉さんにこうのたもうた。あのね、お姉さんから見れば患者さんやその家族など下に見えるのかも知れないけど、でもお姉さんたちが食べていけるのは、患者さんがいるからだよ。支払いのあと、「ありがとございます」は変かも知れないけど、「ご退院良かったですね」、いやそれも長すぎるんだったら、せめて「ご苦労さんです」くらいの挨拶をしなさいよ、ときっちり睨みつけながら注意した。そんなこと言われたことがないのかびっくりした顔で、「はい」とは返事したが、さて翌日から彼女に変化があったかどうか。先日も病院の受付業務にいちゃもんを付けたが、会計も同じこと。せっかくいいお医者さんや看護師さんへの感謝の気持ちが、つっけんどんな会計の対応で水を差されてしまう。
 でもこれもそれも、ヨブ的悲嘆+ストレスのせいで、気短で怒りっぽくなった老人の所業かも知れない。でも残り少ない人生(といって長生きするかも)、少々(ですかー?)人に嫌われても、言いたいことはきっちり言っておきたいとは今も改めて思っている。
 以上の愚痴っぽい話で終わるのは私も嫌なので、少し実のある話で締めくくろう。と言って大した話ではないが、大震災後とりわけ意識の中にわだかまっている反近代の思想を考えるに際して役立つ一つの処方を、以上のようなヨブ的悲嘆の中で考え付いた。簡単に言えば、近代の三種の神器をPSSで表そうという思い付きである。すなわちプログレス(進歩)、スピード、スぺキュレーション(投機)である。飽くなき進歩幻想(右肩上がり)、スピード、投機心こそが狂った現代の状況を作り出している進歩と投機についてはこれまでも何度か指摘してきたが、スピードについて一言。今の政治家のアホらしい言い草の一つ「スピード感を持って」を聞くたびに虫唾が走るが、己れの肉体を鍛えて早く走ったり高く跳ぶことに、オリンピックも近いことだし、とやかく文句を付けるつもりはない。しかしカーレースや最近ではエアレースなどというバカげた競技に熱中する人々の気持ちにとてもじゃないがついていけない。例えばいまエアレースで福島県出身のレーサーが脚光を浴びているが、でもあの競技の観戦中に観客の中に間違って墜落でもしたら、誰が賠償金を支払うのだろう。一瞬のうちに何十人、いや下手すると何百人もの死傷者が出るかも知れぬ危険な競技に、うつつを抜かす人たちの心理は、言って悪いが(かな?)やはり異常だろう。
 おや、またまたボヤキ始めたぞ。この辺でやめよう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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ヨブ的悲嘆(その二) への2件のフィードバック

  1. ささきあずさ のコメント:

    現代のヨブ、佐々木孝先生へ
    美子奥さまがご自宅に戻ってこられたとのこと、よき知らせです。きっとそちらには、一足早く春がやってきているのでしょうか。今年の十勝は、例年よりも降雪が多かったようです。畑には融雪剤が蒔かれ、少しでも早く真っ黒の大地が顔を出す日を心待ちにしています。ストレスも多いかと思います。どうぞ、御身大切にお過ごしください。
    寄りあい処 呑空庵 十勝支部 佐々木あずさ

  2. 阿部修義 のコメント:

     生きるということは、人生行路の途中で病や不条理に遭遇することもあり得ることなんだと思います。当然、人はそれらを望んではいません。しかし、病や不条理が悪だと私は思いません。どうしてそうなったかの原因はわからないにしても、それらには人間にとって大切なものを気づかせてくれる何らかの意味が含まれているように私は感じます。先生が皮膚炎や難聴、そして美子奥様の介護方法の大きな変化で心身ともに疲弊されているのは文章を拝読して私にも伝わってきます。美子奥様がお元気でご自宅にもどられたこと本当に良かったと思います。私も六年前に腰の椎間板ヘルニアで二年近く歩行が大変な時期があり、最終的には三年ぐらいたって手術をしないで自然治癒した経験があります。人間の体は、ある程度の時間が経過すれば自然に治癒できる潜在能力があるんだと、その時つくづく実感しました。今でも左足が多少しびれますが生活には支障ありません。おそらく、読者の皆さんも何らかの持病をお持ちなのではないでしょうか。しかし、今ここに「存在」して生きている、自分自身の「存在」に気づくことで、病や不条理を希望へとつなげていける、私はそう感じます。

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