加藤周一さんの死を悼む

評論家の加藤周一さんが亡くなられた。ちょっとまいったな、という感じである。ふつう有名人が亡くなったときの感じとは、また違った感慨を覚える。井上ひさしさんや大江健三郎さんが言っていることに全く同感なのだ。この国にとって、確かで、頼りになる指標がまた一つ消えた、まさに巨星墜つといった感じである。
 初め加藤周一はなにか胡散臭い、西洋かぶれの知識人に見えた。一時期、居候先の叔父の連れ合いが彼の秘書をやっていたということもあって、早くから、つまり実作品を読む前から名前だけは知っていた。大学に入ったばかりだったから、昭和33年ごろだろうか。先ほどの胡散臭さは、多分に吉本隆明さんの影響があった。つまりマチネ・ポエティクなどというしゃれた名前の文学運動を辛らつに批判していたのを読んで、その頃は吉本隆明の熱心なファンだったので、たちまち影響されたわけだ。だから『雑種文化』論なども高みからの偉そうな意見にしか、そして自伝『羊の歌』も、東京山の手の坊ちゃんのいい気な述懐としか思えなかったのである。
 しかし時おり新聞紙上で見かける彼の日本語を読んでいくうち、ようやく彼のすごさが見えてきた。要するに彼の広く和漢洋にまたがる教養の深さが分ってきたのだ。一口に和漢洋といっても、その広さ深さは測り知れない。とりわけ漢の教養は、今わが国知識人の中から急速に消えつつあるものではなかろうか。夏目漱石の深さは、和洋の教養はもちろんだが、その根底をがっちり支えている漢の教養であったことは間違いない。
 今でも本を出されるたびに必ず送ってくださる森本哲郎さんの日本語も大好きだが、彼の場合、父上が漢学者だったので、その漢の教養の深さは当然と思う。しかし東大医学部で血液学を専攻した加藤さんは、いったいどこでそんな教養を身に付けたのだろう。まだその全部を読まないままであるが、彼の『日本文学史序説』をひろい読みしただけでも、従来の国文学者の切り口とは全く違った世界を見せてくれる。
 比較するのも変かも知れないが、たとえばヨーロッパの知識人といえば、ルネッサンス期の人文主義者たちのように、ほぼギリシャ・ローマの知的伝統に立脚しているが、日本というそれこそ雑種文化的伝統の知的風土にあっては、ヨーロッパ型知識人とは比較にならない多様かつ異質な文化教養を統合する知的膂力を備えている必要がある。もちろん本来ならば、の話である。
 加藤周一は、そうした膂力に恵まれた最後の知識人かも知れない。心から冥福をお祈りしたい。いや、それでは駄目だ。自分の力が及ぶかぎり、彼の残した知的遺産を次代に伝えるために協力しなければならない。なーんて出来もしない約束はやめて、とりあえずは『日本文学史序説』を読破しよう。

(*文中つい「さん」呼ばわりをしてしまったが、もちろん親しい付き合いがあったわけではない。ただ今回だけはどうしても「さん」呼ばわりしたかっただけで、他意はない。)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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