途切れた記憶

一階の書架を見るとはなしに見ていたら、少し厚手のペーパーバックが目に入った。ソルジェニーツィンの『ガン病棟』の英語版である。私は見たことも読んだこともないので、手にとってみると、清泉インターナショナル・スクールの図書館印が押してあった。
 美子は、双子の乳飲み子を私と一人ずつ抱いて、福島から保谷に越したときから、清泉インターナショナルに勤務した。ライブラリアンとしてである。司書と書かなかったのは、教員免許は持っていたけど、正式の司書の資格は持っていなかったからである。ともかく英語圏の先生方にネイティブと間違われるほど英語は達者だったから、司書としてじゅうぶん用が足りたらしい。
 西武新宿線の西武柳沢という駅から、子育てをしながら毎朝七時には家を出て用賀まで通勤したのだから、今考えると偉いもんである。もっともそのころから福島の両親と同居するようになっていたから……ちょっと待てよ、記憶に混乱があったようだ。福島から乳飲み子を抱いて上京したとき、まず落ち着いたのは川崎の稲田堤であった。保谷に移ったころは、子供たちは幼稚園児だった。
 このようにもう過去の記憶がぼやけてきている。実は美子の図書館時代の思い出として鮮明なのは、保谷から二子玉川に移ったあたりからだ。夫婦別々に車を使い、私は五反田、美子は車で五分とかからない勤め先に通っていたころ*、一人まかされた図書館の仕事が面白そうだった。予算計上から選書まで、すべて任されていたからであろう。今度見つかったペーパーバックからも美子の仕事ぶりがうかがえる。
 つまり『ガン病棟』など中高生が読む本ではなく、たぶん仲のよい教員たちのために買ったものではないか。そして表紙全体に張られた透明のフィルムルックス。今ネットで調べたらフィルムルックスはドイツ製の商品らしく、一般名詞としてはカバーフィルムと言うらしい。私が今も紙の表紙の補強のためにカバーフィルムを使うのは美子の影響である。
 さて今その『ガン病棟』の処置に迷っている。安い本だし、いまさら送り返すまでもないかな、と思う一方、この際、返本がてらまだ美子のことを覚えているシスターや教職員は残っているであろうから、本以外に美子の近況を知らせる写真や本を送ってはどうか、などと考えている。美子の過去を、もっと正確に言うと、私たち家族以外の人たちの美子の記憶を、消えるにまかせることに未練というか、悲しさというか、あるいは口惜しさを感じているのだ。美子の側の過去が消えていくのだから、これまで美子を知っていてくれた友人や知人とは、向こうから連絡が無い限り、こちらから一切連絡を絶つ方がいいのか、どうか。
 二、三の友人は、これまでどおり時おり連絡をくれる。しかしたいていの友人は、遠慮のためか、次第に連絡がとぎれ、こちらからの連絡にも返事が戻ってこなくなる。仕方がないな、とあきらめる。今日も紙バサミに保管されていたかなりの数の来信が見つかった。日記やメモ帳は残しておくが、手紙類はどうしよう。美子の代わりに、そのうちのいくぶんかでも読み返し、私の記憶の中に残してやろうか。

*息子注 3キロ程度の距離ではあるが、車だと10分かかる。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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