狭い町だから当然こういうことは起こりうるのだが、一昨日から今日にかけて三回も続くと、殺伐たる日常の流れが一瞬止まって、なぜか心の中を暖かいものが流れる。
まず一昨日、いつものスーパーで美子の手を引いて買い物をしていると、あっ先生今日は、と若い女性に挨拶された。そういうときはいつものことだが、一瞬だれであったか思い出せない。一応は挨拶を返すものの、頭の中は急速回転で、特定を急ぐ。といって、私たちが出歩くところは限定される。そうだスペイン語教室に来ている人だ。
次いで昨日の午後、いつものようにバッパさんを訪問すると、介護認定の聞き取り面談のため、いま市の方から係りの方が来ています、と言われて、そうか今日だったのかと思い出した。立会いは施設側に任せておいたので帰ろうとしたが、ともかく挨拶だけでも、と思い直してラウンジまで行ってみると、突然その係りの女性に、あっ先生、と言われた。見たことがある顔と思いながら一瞬思い出せないでいると、以前スペイン語教室でお習いした者です、と言う。思い出した。二年ほど前まで教室に出ていたが出産のため出れないでいたけれど、またそのうち勉強を再開したい、と言う。お子さん連れで一向に構いませんから、またどうぞ、と返事した。
さて今日の散歩のときである。いつもの夜ノ森公園ではなく、新田川河畔の浄水場横の道を行き当たりまで歩いていった。土手に生い茂った草の除草作業のお兄さんが挨拶を投げてよこす。気持ちがいい。ふだんは川面に水鳥の群れが浮かんでいるのだが、今日は姿が見えない。真夏並みの暑さのせいだろうか。美子の顔も真っ赤に上気している。
いつもの折り返し点からゆっくり戻って、浄水所の建物の側を通っているときである。建物の二階外のベランダから、先生お散歩ですか、と若い女性の声が降りかかってきた。見上げると、確かにどこかで会った顔、しかし思い出せないまま、ここにお勤めなんですか、いいですね静かで、ととりあえず挨拶を返して通りすぎた。でも思い出せない。しかしあの柔らかな笑顔は、そうだ月一度の浮舟文学講座に出ている人だ。
こんなときである。八王子の家を終の棲家にしなくて本当に良かった、と思うのは。町中に親しい友人知人がいて、会おうと思えば何時でも会える幸福。これは都会では味わえない無上の幸福である。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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