動物たちとの生活形態がようやく理想に近いものになってきた。理想といったって、それが普通の形なのだが。つまりやっと犬と猫と同じ屋根の下で暮せるようになったのである。猫たちとの付き合いは三年前の夏あたりから始まったが、いろいろ紆余曲折を経てようやくここまで来た。もともと猫たちが野良もしくは野良の子だったから、そして家の中にインコ(二代目ピーコ、昨年十月に死ぬ)やミニチュア・ダックスフントがいたから、猫たちをまるで犬のように外で飼うようになったのだが。今ではもともと家猫であったかのように、二匹のきょうだい猫(姉と弟)が家のここかしこ涼を求めて仲よく歩き回っている。
でも時おりこの子たちの兄弟たちや義兄(ダリ)のことを思い出す。いちばん世話も大変だったが、そのぶん鮮明に記憶に残っているのは、一昨年の秋から昨春にかけて七匹の子猫たちが毎日のように原っぱで遊びまわっていた光景である。毎朝、子猫たちの昼寝用の箱を日向に出し、日が翳ると取り込むのがそのころの日課だった。彼らは実によく遊んだ。まるで遊ぶためにこそ生まれてきたかのように。
もともとあまり猫好きでなかった私が、ここまで猫好きになったのには、「猫まみれ」(『青銅時代』第42号所収)にも書いたことだが、二年前の初夏、短い生涯を悲惨な事故で閉じてしまったグレの存在が影響している。でも人によっては(別に批判を予想して理論武装するつもりはないが)大の大人がみっともない、世の中にはもっと大事なものが一杯あるじゃないか、と言うかも知れない。ときには「お前は人間より動物が大事なのか」と非難する人もいよう。しかし神は細部に宿りたもう。つまり人間と動物のどちらが大切か、という問題の立て方自体がまちがっている。なぜなら小さきものの生命こそが「いのち」の基本(単位)であり、人間はその基本的な価値を認め受け入れ慈しむことができるがゆえに尊厳性(尊大性ではない)を帯びるのだ。小さきものの命がなぜ悲しいまでにいとおしいのか。それは小さきものこそ全身これ「いのち」に満たされているから、それが魂の裸形だからである。人間は、まさにそれら小さきものたちの命を大切にできる能力ゆえに万物の霊長と言われるのだ。小さきものの命を大切にできない人間、それは無価値とまでは言わないが、内面がすかすかの張子みたいな存在である。ちょっと言い過ぎかな。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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