テレビや新聞を見ると、ここに来て反戦の波が地球規模で広がっているようで、家の中でじっとしている私としては、涙が出るほど嬉しい。政治家や利権屋や評論家などより、民衆の方がずっとずっと目覚め成熟しているということであろう。そして調べたわけではないが、こうした同時多発的反戦運動の広がりにインターネットの普及が大きくかかわっていることにも疑問の余地がない。
参加しようにもデモそのものがない田舎に住んでいるから、などという言い訳はすまい。デモがあったとしてもたぶん参加しないかも知れぬ自分に対して忸怩たる思いはある。引け目といってもいい。それでなんとか他人や自分自身に対して申し開きをしようとする。時には開き直って、デモに参加するより自分は書くことによって、それなりに平和のために闘っているんだ、と。つまり「ペンは剣よりも強し」というわけだ。
でも正直に言おう、ペンはけっして剣より強くはないのだ、と。握りこぶしやナイフや、自動小銃やミサイルに比べるなら、これほど無力なものはない。だが……いや、やっぱり太刀打ちできない。しかしながら、それでもなお、したたかさにおいて拮抗する可能性はある。そして時限爆弾のように思いもかけぬときに、思いもかけぬ場所で、自ずと発火点に達して爆発し、それからは燎原の火のように一気にその力を発揮することもないわけではない。あるいは炭疽菌のように、便箋や古い書物の黄ばんだページの隅にじっと「その時」を待つこともある。この「平和菌」は、デモ参加者や活動家が疲れて眠っている時も、その増殖活動をやめることがない。自己嫌悪や無力感や、それでも消えない希望や期待から滲み出る「平和菌」は、いじいじしていて、断定口調で話すことはめったにない。いや、ないと言ってもいい。ウナムーノじゃないが、「平和、平和、平和」(スペイン語ではパス、パス、パス)と蛙のように連呼することの空しさを知っているからだ。
だから演台の上から「平和菌」をばら撒くより、さり気なく挨拶と用件の間にまぎれ込ませた方が効果的かも知れない。相手の目を見ながら正面切って渡すより、眼はあらぬ方を見ながら、すれ違いざま相手の胸元にすとんと落としてやる方がいいかも知れない。
要は、ラマーズ式呼吸法を習得しようとする妊婦のように、「平和菌」をひり出すための呼吸法を忍耐強く、不退転の決意で日々実践することである。
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