一度読んだはずなのにまるで初めて読むような感じの本がこの頃増えてきた。もうこうなったら開き直って、すべては初対面と割り切ることにしよう。たとえばいま目の前にある武田泰淳の『富士』(中公文庫)は、確かに一度読み、その茫洋たる作品世界の中を浮遊した「感じ」が残っているのだが……こういう時は最初と最後を読んでみるという手もある。
序章「神の餌」。山荘らしき家の庭に毎日やってくるリスやイタチ、ネズミ、小鳥たちの描写が続く。主人公は「リスに餌を与える《神》になど、なりたくない」と思っている。これによって、主人公が人間と人間、人間と動物に必然的に生じる支配と服従の関係に敏感な人間であることが暗示される。事実、いささか謎めいたこの序論の最後で、彼が精神病院に関係する者であり、これから始まる小説が彼の手記であることが明かされる。
終章「神の指」。結局この小説は、富士近くのある精神病院の、戦前から戦後にかけての歴史をたどったものであり、主人公は恩師である院長の娘を妻にするが、院長職は継がずに研究者となったことが分かる。終章の舞台も序章と同じ山荘。しかし悲しい結末が待っていた。休みごとにつれて来た小型犬のポコが、都心から山荘への移動中、車のトランクの中で不慮の事故死(窒息死)を遂げてしまうのだ。
「斜面の庭に私が穴を掘っているあいだ、妻はポコを抱きかかえて、しゃがみこんでいた。時々なぜさすっては、人工呼吸の真似ごとをやり、最後に、あたりかまわぬ大声を発して泣きはじめた…」。
実はこのあたりのあまりにリアルな描写を読みながら、あゝこれは武田泰淳夫妻が毎年のように出かけた河口湖の別荘で実際に起こったことだな、と確信した。作品の中のマリがどういう女性であるかはまったく記憶にないが、この終章のマリは間違いなく武田百合子その人であろう。
それはともかく、現代日本のもっとも宗教的な作家・武田泰淳の、小さな動物の死を描くその描き方に改めて強い共感を覚えた。この世の根源的矛盾が小さきものの死にもっとも鮮烈に凝縮されているからである。
「ああ、ああ、くるしかったろう、いやだったろう。なんにも悪いことしなかったのに。ああ、わるかった。わるかった……」
この小さきものの死に鈍感なすべての戦争遂行者よ、呪われてあれ!
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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