〇 甲乙丙丁の十干と子丑寅の十二支をどう組み合わせれば年・月・日・時・方向を表わすことができるか。恥ずかしながら今辞書で確認するまで、十干をジュッカンと読んでいたのである。昔、話し相手がしきりに「…うんうん」と言っていて何のことか分からなかったが、後からあれは「云々」のことだったと分かった。彼がいつまで「うんうん」言い続けるのだろうかと、他人事ながら心配になったが、自分だって似たような間違いをしょっちゅう犯しているに違いない。「草木も眠る丑三つ時」は午前二時ごろと思うが正確にはどうなのか。十干と十二支を組み合わせていくと、60年で一巡するというが、その基点はいつだったのか、そして今年は何という年になっているのか。
〇 自分のルーツをどこまで遡れるか。父方の先祖も母方のそれも薄明の中に杳として消えている。父方の方は、相馬の前は伊達からという話と会津からという話があり、どちらが正しいのか。母方は四、五代前、八戸あたりから荷車一つで流れてきたキリシタンだということだが、本当か。大田和の墓石の一つには安藤昌八という名が刻まれているが、安藤昌益と関係はあるのかないのか。
〇 何年か前から、主に毎年の手帳のデータを年毎に整理しているが、もちろん年号だけであとは真っ白という年がずいぶんと残っていて、気にし出せば気になってくる。生まれたときからのデータをすべて集めることは出来ないが、それにしても私のこれまではあまりにも空白が多すぎる。誰のためでもなく、自分のためのデータだが、今後どこまでその空白部分を埋めることができるか。
〇 ウナムーノは生涯 inmortalidad (不死性) の観念に取り付かれていたが、私自身は不滅に生き続けることを必ずしも望んではいない。いや待てよ、不死 (inmortal) であることと永遠 (eterno) であることとは同じことなのか、それさえはっきり分からない。しかし先祖たちのように誰の記憶にも留まることなく無明世界とは言わないまでも無の世界に消えてしまうのも嫌だ。
〇 今のところ、既成宗教のいずれにも属するつもりはないが、しかしそれだったらなおのこと、自分の過去と未来について自分なりに意味付けをしっかりしなければなるまい。生は謎であり課題であるが、同時に急ぎ (prisa) であるとはオルテガの言だ。あせる必要もないが、のんびりもしていられない。
〇 でもとりあえず今晩はここまで。あとは明日にしよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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