風の吹くまま

ともかく退屈な映画である。筋らしきものといえば、ある山村の奇妙な葬儀を取材にきた一人のテレビ関係(?)の男とそのクルーが、肝心の老婆が死なず、無為に何週間かその村に足止めを喰らう、というだけの話。ときおり都会からの指示がケータイにかかってくるが、受信状態が悪く、男はその度に車で丘の上まで駆け上らねばならない。とここまで言えば、『ゴドーを待ちながら』や『城』の世界へと連想が走るかも知れない。
 九九年、仏・イラン合作、アッバス・キアロスタミ監督の『風の吹くまま』のことである。確かに「退屈」なのだが、しかしもしかするとその「退屈」こそが観客をこの映画の中心的テーマに引き寄せるための「餌」かも知れない。では何がこの映画の主題か。先ほど『ゴドー』や『城』を連想したと言ったが、生の不条理性と言ったらあまりに簡便な括り方であろうか。しかしそう考えてもあながち的外れではなかろう。特にカフカの『城』とは主人公が《技師》である点で筋立てが酷似している。
 なぜ退屈か。変な言い方だが、現実の時間よりもゆったりと流れる時間のせいであろう。さしあたってやることもなく、変に引き延ばされた時間の経過(丘の上の泥亀?の歩み)。しかしよくよく考えてみれば、血相変え、しゃかりきになっている仕事も、決定的に重要な《誕生》と《死》に比べればいずれもどうってこたあねえもの。中間にあるすべては中途半端で pendiente な(未解決の、垂れ下がった)ものではないのか。
 先日から読んでいる森本哲郎氏の『ことばへの旅』(PHP文庫)の中に「かくもさまざまな陰影を帯びた《待つ》姿勢の複合こそが、人生そのものなのではないか」という言葉があった。そうだ、「待つこと」は「期待すること」、そして最終的には「希望する」ことである。時が満ちるのを待つこと、すべてのものが持つそれ独自の好機を上手に見極め、それを焦らず待つことが肝要なのだ。
 現代人にとってこの「待つ」ことがどれだけ難しいことか。「時」はすべて計測可能のもの、分刻み、ときには秒刻みで経済的効果を生み出すものと考えられている。「時」本来の意味を考える余裕すら無い。イランのどこかとんでもない田舎が舞台なのだが、すこぶる現代的なケータイが重要な役回りを演じていたのも妙に印象的である。どこで終わってもいいんだが、とりあえずここで終わっておこうかといったエンディングも気に入った。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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