ほんとうに春が

既視感(déjà vuvu)という言葉があるなら、既感感(déjà senti)という言葉があってもよさそうな気がする(語呂が悪いか)。というのは、われわれは視覚だけでなく、もっと頻繁に、われわれの中にすでに存在する触覚とか、さらに広い意味での体感を反復なぞっているのではないか、と思うからである。たぶんそうした感覚の繰り返しやなぞることがあまりに当たり前のことなので、あえてそのための言葉が存在しないのかも知れない。先日引き合いに出した一茶の句、

    畠打の顔から暮るるつくば山

を例にとれば、畠打 [をするお百姓さん] の顔に当たる夕陽を見て、あゝこうして今日も一日が過ぎていくなあ、と感じる詠み手の中には、視覚的な体験の積み重ねと同時に、畠打の側に立った体感のようなもの、すなわち夕陽が今自分の顔に触れるまでの低さになっているという感覚、をもなぞっているはずだからである。でなければ、夕陽が当たるのは稲束でも軒先でもいいわけである(でも誰かの詩に、角の郵便局あたりで日が暮れる、といった内容の現代詩があったような気もする。だとしても、それこそ一茶の句の一種の読み換えであり既感感をなぞっているわけである)。
 そんなことを言い出せば、われわれの感覚はすべて自分あるいは先祖たち、の体験をなぞっているわけで、その意味ではまったく新しい感覚など無いと言っても過言ではない。これを表現の場に移せば、すべての表現はかつて既に表現されたものの反復であると言うことができる。つまり表現はすべて既にある表現への注解、割注、そして引用以外の何物でもない、ということになる(誰か偉い人がそんなことを主張していたような気もするが)。
 すべてはコピーだと考えるとつまらないが、しかしそこに歴史の堆積が加味されていると考えれば、逆に楽しくなってくる。オルテガの遠近法主義を援用すれば、われわれが一つの光景を眺める時(感じる時と言い換えてもいいはず)、そこに無意識裡に時間の経過を、遠近を眺め感じているのである。
 たぶんヘラクレイトスの「万物は流転す」もヘッケルの「生物の個体発生はその系統発生を短期間で反復する」も、この遠近法主義の視点から説明できるはずである。いやいちばん言いたかったことは、春がそこまで来ている、というこの感覚は天気予報のデータによるのではなく、われわれの中に堆積されたデジャ=サンティの働きによるということだったのだが…
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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