モノディアロゴスについての対話

――貞房さんが『モノディアロゴス』の第三輯を出したね。大いに祝福し、敬意を払うべきことだが、同時に、実に驚くべきことでもある。なにしろ知覚・思想やら心情・記憶やらの沸き起こってくるものを、毎日のように書き続けているのだからね。
――去年の今頃までの一年半程のものを纏めたものだが、その後も既に一年が経つ。今度は、それが第四輯として出るのだと思う。
――随分と続くものだね。日記というのでもなく新聞等の連載コラムというのでもなく、そもそもモノディアロゴスというのは何なのかね。
――<独り対話>ということだよ。但し自問自答ということではない。
――君は確かモノディアロゴスが、モンテーニュが使った意味での思考実験(エセー)というジャンルの正統な承継と言って来た筈だが。
――その通り。将来ジャンルとして定着すると密かに思っている。しかし思考実験という流れではない。ヒッポのアウグスティヌスのように、とは言わないまでも「魂・精神の自己探求」と言った趣のものとしてのジャンルということだ。
――聖アウグスティヌスの『告白』は、自伝のさきがけと言われているが、すると自伝の日毎の記録というわけだね。
――そうではない。確かに自伝的要素あるいは私小説的要素さえ、ないわけではない。そうした要素だけを拾い集めれば、作品を組み立てることも出来る。しかし、それが主要なのではない。やはり、貞房さんの心的活動の自己探求と言うべきものだ。そうそう、今度の第三輯に「私小説を超える」以下数回分の続きの記述がある。モノディアロゴスとは何かという問いへの答えは、その中から見つけ出すことができるかも知れない。見つからないとしても、この一連の記述は、私小説を肯定する立場の論として白眉のものだと僕は思う。熟読に値する。
――形式的なことで言うと、モノディアロゴスは最近流行りのブログというものと同じではないのか。あっ、パソコンをやらない君に尋ねても答えは出ないか。
――そんなことはないさ。第一に重みが違うね。ブログというのは、ブログサービスというものに乗って、日記風のものを発信するわけだろう。貞房さんのはホームページ上のもので、設定するにも手間が掛かっている。個人的な意見や考えを発信するメディアとしては同じだが、ホームページは発信がより総合的だ。「ブログ」というのは、貞房さんのモノディアロゴスが始まってから数年後に聴かれるようになった言葉だ。本家とか元祖といったことからしても格が違う。
――本家とか元祖かあ、素人の考えだね。ま、それはそれとして、八年越しのモノディアロゴスは、当初のものから変わってきているのだろうか。
――勿論、それは避けられない。第三輯の「あとがき」で貞房さんが自分で言っているように、まず字数枠が崩れた。千字という枠にこだわらないことにしたのだと言う。
――君は字数という制約に意義がある、というような言い方をした筈だが。
――それは為にする理屈だったわけで、瑣末なことさ。それよりも変化の二つ目について話をしよう。モノディアロゴスの日毎の記述を、大きく自己言及的なものと他者言及的なものに分ける。すると第三輯は第一輯に比べて後者の方が多くなって来ている。他者言及的という方には、多くのテキストが入る。だから言い方を変えれば、自己探求的なものから次第に他者言及的なものに変わってきているということかな。重ねて言い方を変えれば、冨士貞房氏的な要素が佐々木孝氏的な要素に多く変化しているとも言える。
――モノディアロゴスは、その二人を区別しているわけではないだろう。ましてモノディアロゴスはその二人の対話というのでもない。
――勿論だ。しかし佐々木氏にはスペイン思想という専門領域がある。第三輯の「オルテガへの近づき方」以下の、これも連続したものを読んでみると良い。随分と読み応えがある。佐々木氏は『大衆の反逆』の新訳を出す予定になっているらしい。おそらくその解説あるいは訳者あとがきといったものは、一連の記述のコラージュだけで、見事なものが出来上がってしまう。巻末に近い「体感」という二回分のウナムーノについての記述も、スペイン思想を専門領域とする研究者の「語り」だ。つまり、そうした要素が増えているという変化が見られる。
――モノディアロゴスは作家としての冨士貞房氏にとっても、研究者としての佐々木氏にとっても、備蓄倉庫として機能するわけだ。日々の備蓄が大変重要になってくる。そうした備蓄倉庫として、モノディアロゴスのようなものであれば、文学の一つのジャンルかも知れないね。
――備蓄倉庫という表現はあたらない。だいいち余りにも無味乾燥な言葉だ。それに、備えるとか蓄えるというような功利主義的な意図が全く無いのもモノディアロゴスの特徴だからね。しかし、このことだけは請け合える。モノディアロゴスの読み手にとっては、いわゆる<知恵袋>になるということだ。
――自分で言い出しておいて何だが、言われてみれば備蓄倉庫というのは、文学的な香りがしてこない言葉だね。それなら名誉挽回に、いつも感じていることを最後に言っておこう。モノディアロゴスは、言葉にならないようなことも言葉にしてしまう表現の巧みさがあって、読み手にとっては文章の見本帖になる。
――そのことには、僕も無条件で同意する。
(二〇一〇・七・二四)

※「あとがき」に書いたことへの畏友N氏のお返事が届いた。さっそく七月二十日以降の第二版に収録させて頂くことにした。しかしその後、氏からいくつか微細な修正が加えられた決定稿がとどいた(七月二十六日)。「備蓄倉庫」という表現に関するものが主要な訂正だが、煩瑣になるのでその箇所をいちいちことわらないことにする。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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