オルテガの高弟で、最近までスペイン言語アカデミーの会長職にあったライン・エントラルゴの『医者と患者』の翻訳書が読みたくなり、インターネットの「日本の古本屋」を調べたら幸い見つけることができた。さっそく注文したのが今日届いた。1973年に平凡社の「世界大学選書」の一つとして出版されたものの新装版(榎本稔訳、1983年)である。
なぜ急に読みたくなったかといえば、まさに医者と患者の関係が最近いやに気になりだしたからである。世の中で「先生」と呼ばれる人種に対する沸々と湧いてくる不信感のせいかも知れない。教師、医者、政治家、そして「先生」とは呼ばれないが同じ線上にある聖職者への不信感(ときには嫌悪感)だが、自分がほんの最近までそのうちの教師であったことが、それをさらに複雑にしている。しかし差し当たって、というか今後とも、政治家とは付き合わないし、聖職者とはこちらから近づかない限り無縁でありうる。ところが医者とは、現に歯科医のもとに通っているように、今後さらに関わりあう機会が増えることが予想される。それで気が重いのである。
簡単に言えば、怪我とか虫歯とかの外科的関係(?)は避けようもないし、仕方がない。しかし、それ以外のいわゆる病気にかかったときのことを思うと、とたんに憂鬱になってくるのだ(もしかして病気そのものに対する気がかりよりも)。なぜなら両者のあいだにはふつう初めから有無を言わさぬ従属(隷従?)関係が存在するからである。それをしも生殺与奪の権とは言わないにしても、局面しだいでは限りなくそこに近づいてしまう関係。死んだ方が「まだ増(ま)し」と思わざるを得ない関係。
しかし一方でこうも内省する。いま元気だからこんなことを言っているが、こういう奴にかぎって(おいおい俺のことだよ!)いざ病気となると、てんからだらしなくなり、医者に向かって「親分!!!」などと言いかねない。だからこそこれほど気に病んでいるのか、と。
しかしもっと根源的な疑問もある。つまり他人に迷惑が及ぶ伝染性の病気でないかぎり、果たして患者に、薬と管でがんじがらめにされての無残な最後を拒否する権利はないのか。もっと平たく言えば、自分の家の畳の上で死ぬ権利がかくも簡単に奪われていいものだろうか、という疑問である。さてそんな難問にライン・エントラルゴはどう答えてくれるのだろう。
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