いささかの誇張もなしに言うのだが、今年はいつの間にか大晦日になっていた。生活が充実していたからか、それともボケてきたからか。願わくは前者であらんことを。
昨夜遅く東京から帰省した息子を連れて、今年最後の大熊詣で。しかしあれほど孫の訪問を心待ちにしていた義母が、今朝から少し熱があり、体調があまり良くないとのこと。孫の顔を見て分かったのか頷いたきり、午後の昼寝に入ってしまった。今はただ水分を取って眠ることが大切とのスタッフの親切な言葉に、目覚めたらよろしく伝えてほしいとお願いして、ふだんより早めに施設を後にした。
初めて施設を見た息子によると(現在医学専門の出版社で働きながら夜間、出身大学付属の社会福祉専門学校で介護士の勉強をしている)、こんなに環境のいい、そしてスタッフが感じのいい老人施設はないとのこと。そう言われて改めて見てみるとなるほど、全ての棟が平屋で、それぞれの個室は広々とした庭に面していて、その先も遮るものがない。ここの理事長が南仏の避暑地をイメージして作ったらしいが、さもありなん、海岸が近くさぞかしオゾンも豊富。ところがであるーっ、何キロか先に福島第一原発があるのだーっ。願わくは、少なくとも義母健在なりしあいだは、げに恐ろしき事故の無からんことを!いや、そうじゃない、一日も早く覚悟をきめての永久稼動停止が実現せんことを!
しかしよくよく考えてみれば、不吉な原発の存在以外にも、このみちのくの小さく平和な町では想像もできないほどの悲惨な状況が世界中いたるところに現出しているわけだ。今もいま、この地球上のどこかで、確実に戦火に怯えている人たちが何万、何十万、いや何百万人といるわけだ。
それを考えると、こうして安穏な生活のできること自体申し訳ない気がしてくる。いや、気がしてくるだけじゃない、事実申し訳ないことなのだ。
今年最後だから、今まで何度も別のところで紹介してきた一人の哲学者と一人の詩人の言葉を引用して締めくくりたい。
「私は、私と私の環境である。もしこの環境を救わないなら、私をも救えない」…オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』より。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」…宮澤賢治『農民芸術概論綱要』より。
(12/31)