こんな時期に台風、聞き違いだろ、と思ってテレビの音に耳を澄ましてみると、やはり台風らしい。毎年秋口に来るのが十何号とかになっているわけだから、若い番号の台風があっても不思議はないのだが、今の時期とは珍しい。そんなわけで今日は朝から大気が不安定で重苦しい。本当は昨日が大熊詣の日だったが歯医者さんに行ったので、出来れば今日と思っていたのだが、消毒のために今日も通院せねばならず、ウメさんには悪いが、さらに一日延期して明日にした。
下の歯茎の時は痛みはさほどでないのに両顎とも青黒く腫れ、まるで負け戦のボクサー然となったが、今回の上の歯茎の手術(たぶんまた切って縫ったと思う)で歯茎がわずか隆起しているが、少なくとも今のところ鼻の下が腫れ上がる心配はなさそうだ。
ところで先日の満州の話でバッパさんから聞いたいくつかの新事実を忘れないうちに書いておこう。たぶんそのうちのいくつかはいずれ修正せねばならないだろうが。まず私たち一家が当時の満州に渡ったのは、昭和16年の4月のことらしい。その直前、やはり満州に渡航するS叔父が結婚し、出発は別々になった。ともかく私たちは4月6日、門司から釜山まで船、そのあと汽車で朝鮮半島を縦断して中国のアントウ(?)まで。
叔父がその時結婚したということは、従弟のMfは満州で生まれ、その弟のMtは引揚げ時はまさに乳飲み子だったことになる。彼は小学生のころたしか健康優良児になったはずだから、死線を越えてよくぞ大きくなったものだ。
この叔父は移住後、あの有名な大同学院で学んだはずだが、一体そこで何を勉強したのだったか。ちなみにヤフーで検索してみると、この大同学院に関する資料はだいぶあるようだ。同窓会などがかなりの文献を残しているらしい。それらを取り寄せて読む気は今のところないが、しかし国家的侵略の野望と、それを知りつつも大陸に新天地を求めていった多くの青年たちの夢は、おそらく微妙かつ奇妙に綯い交じっていたはずである。大局的には間違った国策に加担したわけだが、また同時に、巧妙に仕組まれた枠組みの中で踊らされたことも否めない。だからこれがたとえば合法的な(?)ブラジル移民のような経過をたどったしたら、それら純粋な青年たちの夢やロマンは中国自体の発展のための貴重な貢献となりえたかも知れない。だとしたら、さしずめ私には日系中国人として別の人生が待っていたかも知れない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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