ヤスシ君

夕方、ふと青桐の方を見てみると、まるで炎熱の日の夕方みたいに、葉っぱがみなだらりと垂れ下がっている。確かに熱い一日ではあったが、そこまでだれることないっしょ。でも気温などを別にするなら、まるで真夏の夕暮と変わらない光景なのである。どうなってるのでしょう。
 ところで午前中、怖れていた上の歯茎の手術がやっと終わった。十ヶ月以上かかった治療もこれでようやく最終段階にさしかかったわけだ。一時間強の手術の後はさすがに痛みがひどく、ひとりでに目じりに涙が溜まるほどである。でも虫歯の痛さとは違って、底なしにどんどん痛くなっていく恐怖はない。つまり最終ゴールからの逆走みたいなものなのだ。でも何も食べられず無理にベッドに入った。疲れてたのか一時間ほど寝たようだ。ちょうどバッパさんをセンターに迎えにいく時間だった。痛さはほとんど消えていた。
 だから夕食にはやわらかな卵あんかけのようなものを作った。バッパさんの所に食事を運ぶと、なにやら三つ葉のお浸しみたいなものを持っていけ、と言う。賞味期限など完璧に無視するバッパさんからはいっさい食べ物は貰わないことにしているが、その時はつい貰ってしまった。私自身はもちろん食べられず、妻が食べてみてそのあまりの硬さにびっくり。それを見て、私の方がぷっつん。やめればいいのに、下に行ってバッパさんの目の前でビニール袋に棄ててきた。六〇越えた男のやることではないのだが……
 それに昨日のバッパさんの話の中でまた長いあいだ忘れていたことを思い出したばかりなのに。つまり満州で私の弟になるべき胎児の死産のことである。その時、家には父と兄が残り、姉は朝陽の叔父の家に、そして私とバッパさんが奉天に行き、バッパさんは病院に、そして私は大叔母の家に預けられたらしい。その家の一人っ子Aちゃん (私より二つ三つ年上のはず) が集めていたグリコのおまけの兵隊人形が欲しくて欲しくてたまらなかったことを覚えている。
 死産といっても何ヶ月の胎児であったのか、今はちょっと聞く勇気は無い。確か名前だけは決まっていたはずである。ヤスシ。どんな漢字かも今は聞く気がしない。ヒロシ、タカシ、ヤスシ。あの有名な芥川兄弟にあやかったのかどうか、これも今はとてもじゃないが聞く気はない。
 もしかすると昨日謎のままに終わった夕日の中の柿の実は、この時の汽車旅行の記憶がまぎれ込んだのかも知れない。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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