今朝からようやくカイロをやめた。下着に貼るカイロである。いままでそのおかげで(と思っている)ギックリ腰にならないで済んだ。これだけ長い間ならないのは、今まで無かったのではないか。はっきり覚えていないけれど、最後になったのはまだバッパさんが家にいたときではなかろうか。すると一年以上は魔女の一撃を食らわなかったことになる。
今なると妻の世話ができなくなる、と気を張っているからだろうか。その代わり、手の湿疹がいま真っ盛りである。今までいろんな軟膏をためしてみたけれど、どれもまったく効き目がない。アトピーだかアレルギーだか、結局は原因が分からないのだから、毎年の過ぎ越しだと観念して、自然と治るのを待つしかない。
いまふざけて過ぎ越しなどと言ったけれど、復活祭などというものとは無縁になってから何年になるだろう。おそらく十年くらいだろうか。キリスト教に限らず、あらゆる組織宗教とは今後とも、つまり死ぬまでかかわりを持つことは無いと思うが、じゃあなたは無宗教論者あるいは無神論者か問われれば、さてなんと答えよう。まず無宗教と無神論とは同じものではないはずだが、特定の宗教を持たない、と言う意味では無宗教であろうし、人格神を信じていない、という意味では無心論者であろう。
いまふと思い出したのだが、十九世紀スペインの教育改革者がドイツから本国スペインに持ち帰った思想に万有内在神論(panenteismo)というものがあった。ドイツの哲学者クラウゼなどが主張した思想である。私流の乱暴な理解では、汎神論と一神論のちょうど中間に位置する思想であるが、もっと正確を期すれば次のようになる。
「理神論や超越神論のように世界を神の外部に措定せず、また汎神論のように世界それ自身を神の顕現とすることによって神を世界のうちで消滅せしめず、万有は神のうちにあり神によって包括されているという考え方」(平凡社『哲学事典』)。
なんだか分かったようで分からない定義である。再度自己流に解釈すれば、ヨーロッパ社会のようにキリスト教というものにがんじがらめにされて息苦しくなった世界から、なんとか出口を求めた人たちが東洋の汎神論的世界に一気に飛びつくことにもためらいを感じ、両者のいいとこ取りをしようとした妥協の産物といえようか。私自身がいまその思想にいちばん近いところにいるなどと言っているわけではない。正直に言えば、そう自己措定するまでにも至っていないのである。まっゆっくり考えてみよう。死は待ったなしだって?そんときはそんときまで。
ともかくローマ教皇のアメリカ訪問でまたまた露出した目も当てられない教会組織の退廃の極みにはうんざりしている。というか、貧困と憎悪と戦火が絶えないこの世界にあって、口先だけの平和の祈りなど聞きたくもないということ。結局はおのが組織の安泰と繁栄が大事だということは見え見えなのだから。