小川国夫さんの小説を読んだつもりになってたが、実際はほとんど読んでなかった、少なくともしっかりとは読んでなかったことは、先日も白状したとおりである。寡作な作家と思われがちだが、そんなことはない。十年ちょっと前に小沢書店から出た全集14巻に収録されている作品だけでもたいした量だが、以後十数年にわたって書き継がれた作品だって相当な数であろう。
ここ数日、長年の疎遠の埋め合わせを一挙にするつもりではないが、次々と(といってもこれまでの半分以下のスピードで)彼の作品を読んでいる。そして一挙に読む作家ではないな、などといまさらのように感じている。つまり文章の随所に苦心の彫琢の跡が見え、斜め読みができないのである。もちろんそのことのプラスマイナスはある。つまり小説の流れというのか、あるいは読者の意識の流れがなめらかに進まず、ところどころで流れがとどこおる、いやとどこおらないまでも、流れに逆らう鋭角の表現に意識が向かいがちになる、などのことは小説にとってのマイナス要因となろう。
そう考えるのは、深夜もしくは明け方、あの小川邸の裏庭に建てられた茶室風の書斎で、的確な表現を求めて苦闘する小川さんの姿をつい想像して、仇おろそかに飛ばし読みはできぬぞ、と一人合点して構えてしまうからだろうか。短編だとそうした彫刻の跡は、ちょうど見事な彫刻作品を眺めるときのように、すべてプラスに映じるのに、長編の場合は、読む方がかなり頑張らないと、ときどき流れ全体の展望が効かなくなってしまうことがある。
いま読んでいるのは昭和45年雑誌『文藝』十月号に発表された、初期の(と言えるかどうかじつは分からない)代表作『試みの岸』である。ちょうど半分を過ぎたあたりであろうか。本は手元にあったのに、どうも読んだ記憶がない。どうしてなんだろう。読んだ気になっていたとしか言いようが無い。恥ずかしい。ともかく今回は気合を入れて読むつもりだ。
ところで上で触れた『全集』以後に小川さんが書いたものは、いずれ完璧な『全集」に収録されるであろうが、今日の午後何気なくグーグルで「小川国夫」を検索していたら、思わぬみっけものをした。平成7年10月から平成8年12月まで、毎週日曜、「日本経済新聞」に連載された「昼行灯ノート」である。さっそく袋綴じB6版250ページの本にさせてもらった。こちらは実に気楽に書かれた文章群で、『試みの岸』で少しばかり強張ってしまった私の脳をやわらかく解きほぐしてくれそうだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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