埴谷雄高は瞬時に相手の本質を捉える天才であったが、その彼が島尾敏雄をホモ・センティエンスと命名した。人間とは何か、をめぐって、古来さまざまな定義がなされてきた。アリストテレスの言うホモ・ポリティクス(政治的人間)、さらにはホモ・エコノミクス(経済的人間)、ホモ・エレクトゥス(直立する人)、ホモ・サピエンス(知的人間)、ホモ・ファーベル(工作人)、そして新しいところではホイジンガの言うホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)などなど。
ホモ・センティエンスは埴谷さんの造語だろうか。哲学事典を引いても、上記の諸定義はすべて出ているが、センティエンスなる言葉は出てこない。埴谷さんの造語だとしたら、見事な造語である。文法的にも間違いが無いはずだ(動詞 sapio の分詞形ですよね)。なにせ彼は若いときから、たぶん独学でラテン語を学んでおり、豊多摩刑務所の独居房生活あたりからだろうか、寝る前にラテン語の箴言集を読む習慣があったようだ。
だいいち彼の有名な『不合理ゆえに我信ず』もテルトゥリアヌスあるいはアウグスティヌスの Credo quia absurdum から借用したものである(ただしそのいずれの著作にもそのような言葉は見られないそうだが)。
さてそのセンティエンスの意味だが、「感覚的」とか「感じる」であろう。埴谷さん流に言えば「全身これ感覚」ほどの意味になる。事実、島尾敏雄の文学は感覚的な用語や表現に満ちている。作家以前の習作時代の作品からもその特徴は顕著だが、もっとも有名なのは、昭和23年『夢の中での日常』のあのシュールな場面である。
「私は思い切って右手を胃の中につっ込んだ…すると何とした事だ、、その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられてきたのだ…そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた…そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った…」
生まれつきの皮膚の弱さと長年の胃弱が結んだ超現実的な夢でありイメージだと言えば話は簡単だが、島尾敏雄にとってそれは現実と地続きの世界なのだ。だからセンティエンスは五感の中でも、大きく触覚に傾いていると思われる。
皮膚感覚にまつわる表現が頻出するのも当然なわけだが、しかしここで作家島尾敏雄を特徴づけるもう一つの感覚を強調しておきたい。それはある意味で触覚よりさらに内面に届く感覚、すなわち聴覚である。★島尾が幼年時代、郷里相馬に戻るたびに夜な夜な母方の祖母キクに昔がたりを聞いたことは、後の作家誕生に大きな意味を持つことになる。その意味で相馬に材を得た作品の中に、意味を知らぬままに記憶こびりついた断片的な言葉がいくつも収録されていて、その聴覚の鋭さには驚嘆させられる。
小川国夫もまた感覚的な鋭さに満ちた作家であることは万人の認めるところであろう。
「私は視覚的人間のせいか、写真には意味を感じます」昭和43年5月16日付書簡
(この項未完)
【息子追記(2022年8月30日)】父はこの投稿を完成後、「青銅時代」第48号(2008年)にそれを寄稿している。★以降が、補筆した続きの文章である。
★島尾が幼年時代、郷里相馬に戻るたびに夜な夜な母方の祖母キクに昔がたりを聞いたことは、後の作家誕生に大きな意味を持つことになる。彼自身のこんな証言もある。
「要するに祖母の昔ばなしは、そのときはありふれたことと聞き流して過ぎていたのに、思わぬ深いところまで根をおろしていて、それをぬきとることができないことを知らないわけにはいかぬ。もしかしたら私の小説はそれを下敷きにしているのではないか。しかしそれらが私の心の中に息づいているのは、祖母のかたりくちを通してであった。書物で読んだ知識としてではなく、繰り返し耳からきいたものとして。祖母のなまりと声音と共に私の体内にしみこんでいて、体臭のように、ときとしてふっとにおいをたててくるようなものだ」(「昔ばなしの世界」)。
確かに、相馬に材を得た作品の中に、意味を知らぬままに記憶にこびりついた断片的な言葉がいくつも抄録されていて、その聴覚の鋭さには驚嘆させられる。
小川国夫もまた感覚的な鋭さに満ちた作家であることは万人の認めるところであろう。感覚の中でも先ず突出しているのは、彼の視覚的な表現力の的確さであろう。自らも認めるところであるのは、次の私信の一説からも明らかである。
「私は視覚的人間のせいか、写真には意味を感じます」(昭和43年5月16日付け佐々木宛て書簡)
彼の作品の中からその例証を求めるとすれば、それこそ枚挙に遑(いとま)がないであろう。いやいや白状すれば、現段階では小川国夫の際立った視覚性を批評できるほど彼の作品を読み込んでいないのだ。これはまた他日を期しての宿題とさせていただこう。