籠城生活妄想

四月五日(震災後26日目)晴れ

「この記録の主題をなす奇異な事件は、2011年3月、南相馬市に起こった。通常というには少々けたはずれの事件なのに、起こった場所がそれにふさわしくないというのが一般の意見である。最初見た眼には、南相馬はなるほど通常の町であり、浜通り地方という福島県の一地方都市以上の何ものでもない。町それ自身、なんとしても、みすぼらしい町といわねばならぬ。みたところただ平穏な町であり、地球上どこにでもある他の多くの商業都市と違っている点に気づくためには、多少の時日を要する。……」

 カミユの『ペスト』冒頭の一節を拝借した(元は宮崎嶺雄訳)。ご存知のように、この小説のエピグラフはダニエル・デフォーの次の文章である。

「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、意にかなったことである」。

 現代のペスト菌ともいうべき放射能によって引き起こされた奇妙な監禁状態。なんだか思わせぶりな言い方をしてしまったが、残念ながら私が考えた南相馬とオラン(アルジェリアの港町)、放射能とペスト菌の類似点はここまで。私に小説家の才能や、飽くなき好奇心があれば、南相馬市を舞台に一編の小説を書くであろうが、私にはその才能も好奇心もない。ただ奇妙な事件・事態であることだけは間違いないと思っている。
 ペスト菌よりはるかに恐ろしい放射線。今回いろんな専門家、事情通が登場した。原子炉内部の放射線値の何万倍、シーベルトとかベク何とかという訳の分からない単位。「君、広島や長崎の放射能とは桁が違うよ、桁が…」
 でもそれは、事故現場にある溜まり水とか瓦礫に付着した放射能のことだろ? それが実際に空気中や畑に広がっているわけじゃないだろ。いいよ、もうたくさんだ! ともかく全力を挙げて放射能漏れを封じ込めるなり、廃炉作業に入るなり、英知の限りを尽くしてくれっー! ともかく後から修正してもいいから、先日の私の大胆予想のように、具体的な期日を示してくれー!
 私は生まれつきの能天気だから、もう終息したあとのことを考えてるぜ。そうっ、相馬とくりゃー野馬追だっぺ(あれっこれは相馬弁でなく茨城弁だべ)。七月二十三~二十五日の大イベント。私の大胆予想第二段。今年、相馬野馬追は例年通りの開催間違いなし!くそ忌々しい原発事故で地に墜ちた相馬の名前を挽回する絶好の機会だ!
 遠くは丹下左膳、おっとこれは架空の人物、もっと最近のことで言えば、あの埴谷雄高さん(あゝ会いたい!)の中に脈々と流れていた相馬武士の血を忘れてもらっては困る。武士といっても階級のそれではありませんぞい。そこいらのじっちゃんばっちゃんから洟を垂らした(あっそんな子は今はいません)わらし子まで、誇り高い(時の権力者には滅多なことではまつろわぬ)したたかな魂が流れてまっせ(おっとこれは関西弁)。今年は例年以上に多数の甲冑武士が登場しなきゃなるまい。私? 残念ですが家内の面倒みなきゃ(また言い訳に使う!)。私の高校時代の同級生が確か総大将で出陣、私の従弟も一昨年から出てます。双葉町の小母さんたちも相馬藩の軍歌「相馬流れ山」を私の家のすぐ近くの野馬原いっぱいに踊りますぞ。
 原発事故なんてくそ食らえ! そのころはあの忌々しい原発は廃炉となって(あっ私の大胆予想ではまだその途中ですが)美しい海岸線が訪れるたくさんの観光客の目を楽しませる……ほんと、強く願えばけっして、けっして夢ではござりませぬ(サムライになったつもり)。

*今晩六時の例の数値 0.79マイクロシーベルト/時、相変わらず低いですなー。
*遅ればせながら、今夜のモノディアロゴスを、現在、新潟の避難所にいる友人松崎孝子さんに捧げます。彼女のコメントが右にあります。→

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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籠城生活妄想 への2件のフィードバック

  1. 松崎孝子 のコメント:

    先生が原町に籠城なさっていると知ったのは、山形の避難所に着いた日の翌日の新聞でした。3月12日の夕飯どき、原発から20キロ圏内にあたる小高には、防災無線で『原町区の石神中もしくは石神1小に、各々避難して下さい』との指示が出て、津波で家を流された95歳の痴呆の祖母を連れていた私は、もう仕事に行く為のバッグしか荷物が持てませんでした。
    小高から原町へ向かう、通いなれてるはずの旧国道を、やけにスピードを上げて走る不気味な夜のキャラバン隊となって自らもハンドルを握ってると、もうここがどこなのか、今がいつなのか、果たして私は今現実を生きているのか、まるで何もわからなくなりそうでした。
    石神中から強制的に半数がゆめはっとに移動させられ、そこではまるで路上生活者のように通路に段ボールと毛布で寝泊まりし、食べ物は幼児の拳ほどの握り飯を1日2,3 個と水道水。(もっとも食欲などありませんでしたが。)
    そこで3日間、枝野さんと原発対策本部長様と、東電の妙にニヤついて見える幹部の人が発する一言一言を、寒さと恐怖に震えながら、ただただ聞いておりました。もう、誰も笑顔を作らなくなった頃、『車がある人は自主的に避難して下さい』などという悍ましい職員の一言で、結局4日目の朝、ガソリンの続く限り走ろうと、当てもなく西へ北へと逃げました。
    たどり着いた米沢駅で、3時間だけ営業していた立食いそば屋に入りました。11日から、まだ足の震えは止まりません。でも、温かいかけそばが喉を伝って胃袋に入っていった時、ただただ涙が溢れました。私の親戚はほとんどが津波で家を失い、母方は先祖の墓も骨も跡形もなく消えました。今、私は新潟県の避難所におります。高3と中3の息子達は転校を余儀なくされ、その為に様々な選択を強いられます。
    避難所はすし詰め、ストレスが人との摩擦を生み始めています。勉強などできる環境ではありません。仕方なく中高生を持つ親は、有料のアパートに越して行きます。
    原発難民となって25日、先生の籠城blogを毎晩消灯後に読むのが日課になりました。そこにいらっしゃる先生と、流浪する私の間に、放射能が妨げる距離は感じません。と言っては失礼でしょうか。私はこの夏、野馬追いの夜の小高の花火を、きっと例年通り、小高川の土手に腰かけて見上げるつもりです。早く小高のために働きたいと思っています。
    また島尾敏雄を読む会で、ちょっと難しいお話を、わかったような顔をして聞くつもりです。早くお目にかかれることを祈って、頑張ります。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    書き込み、胸がいっぱいになりながら読ませていただきました。小高の私の親戚
    のことも気にかかりながら今日になりました。本当に大変な目に会われましたね。
    あなたのおっしゃるように、今年の夏、必ず小高川で花火を見れることを願って
    いますし必ずそうなると確信しています。私の知っている人で、松崎さんが最初
    の本当の避難民でした。本当に辛い経験をなされましたね。事態が一日も早く終
    息し、元気で再会できることを心から願っております。消灯後に私のブログを読
    まれていたとか。今夜のブログ、野馬追のことを書きました。つたない文章です
    が、特に松崎さんに捧げます。今は何もできませんが、せめてお帰りになるまで、
    ご一家の無事を祈り続けます。

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